7日目






朝。いつもなら明るく「行ってきます」と言えるのに。今日は身体がどうしようもなく重いのです。ジリジリと目覚まし時計のベルがなるけれど、止める気力がありません。ベルはすごくうるさいはずなのに、いつもならもっと寝ていたいからってわずらわしい目覚ましの音を止めるのに。今日は何も思わないのです。うるさいともなんとも。ただ、大音量の高周波が、わたしの耳を刺激することなく、脳にただの情報として送られるだけなのです。


ぼんやりと、眼は開いたまま。でも頭は、意識は、一応クリアです。眠くはありません。ただ、ぼーっとしているだけなのです。何も考えず、何も感じず。ただただベッドの上に横たわっているのです。






昨日、ひとしきり泣いたせいでしょうか。当時のもやもやとした不安定な精神状態に比べれば、今現在の気分はある程度清々しく、けっこうすっきりしています。胸の中の霧が晴れて天気はすっかり快晴、とまではいきませんが、自分の汚い気持ちを自覚し受け入れたからか、少しだけ光が差し込み晴れ間が戻ったように感じました。



でも何だかな。それでもやっぱり気力が全く起きないのです。起き上がる気力も、「、いい加減起きなさい!」と叫ぶお母さんに返事する気力も、起きるのがめんどくさいからこのままずっと寝ててやるっていう意地も、おなかが空いたから何か食べたいな、という食欲も。寝ている間に確実に溜まっているものを外に出してしまいたいという排泄欲も。なにも、したいという気持ちが起こらない。無気力ってこういうことを言うんですね。今まで感じていたやる気のなさの比ではありません。お腹の中に動力源があるとすれば、
それが稼動していないがために身体が動かず、考えることも放棄しているというか。よく「腹から声を出せ」と言いますが、本当。
んなとこから声なんて出ねーよ声は喉から出でくんだよ、と今では思っていたのですが、今まではお腹のエネルギーによって動かされていたのですね。声も自然とお腹から出ていたのだと実感します。





そういえば今日で幸村くんとのお試し期間も終わりだなぁ。なんか最後の方はごたごたしてたけど。きっと、次にはつながらないと思うな。だって、昨日わたしが電話してから一度も電話がかかってこなかったから。普通は電話できなくても、「どうしたの?」とかメール送ったりすると思うのですが。それすらも昨日はありませんでした。あぁ、泣けてくる。とは言っても、涙のダムは枯渇してしまっているから今更水を出せって言われても出て来やしませんが。

最初だけだったんですね、マメな連絡も。あの頃はわたしが送らなくてもテレビ番組の話とか、授業の話とか、お友だちの話とか。してくれていたのに。メールや電話以外でも、幸村くんから何事も積極的にアクションをわたしに対して起こしてくれついました。受け身なわたしは今までその恩恵に肖り、授かっていたのですが。今ではすっかりわたしが幸村くんを追いかけていますね。幸村くんに骨抜きにされちゃってます。骨抜きにされちゃった結果、今、こうやって動けなくなっているのかも。あ、そう考えれば合点が行きます。




学校、行かなきゃ。けど幸村くんに会いたくないな。気まずいし。それに昨日、一昨日と連絡がなかったので待ち合わせ場所にいるかさえも疑問。きっと居ないでしょう。連絡が取れない時点でもうアウトでしょう。愛想つかされちゃってるんですよ。自分の意見もまともに言えないし、消極的だし、周りに合わせることしか知らないし、大して可愛いわけでも取り柄があるわけでもないわたしだから。幸村くんも気づいたのでしょう。わたしという人間の小ささと平凡さに。だから離れて行ったんだ。…認めたくないけど。

マイナスなことばっかり考えていたらますます身体が動かなくなってきました。もう金縛りにかかったかのように身体が重く、脳の全部のシナプスがぶちんと鉤針か何かで救い出されたかのように思考回路もストップしそうです。今は生きるために最低限必要なこと、息しかしていないような気がします。耳はわたしの精神的に、また止めない限り鳴り止まないベルによって物理的に麻痺し、眼はただ一点を、今で言うなら枕元に置いてある携帯のディスプレイあたりをじっと凝視しています。ただ今の時間は8時7分だそうです。完全に遅刻です。そして新着メールが21件、メルマガがいっぱい来たのでしょうね。それと不在着信が13件。あは、めずらしー。不在着信がこんなにあるなんて、わたしって人気者?それとも非通知電話ですかね?今時流行らないですよ、非通知請求詐欺とか。もっと最新の手口を駆使しないとこのは騙せませんよ?



でも、さすがに非通知で13件もあるはずがないですよね?誰なんだろう?それだけ電話を寄越してくるなんてよっぽど暇人なんですね。それにわたしも、これだけ電話とかメールがあったんだからちょっては気づきなさいよ。よほど疲れていたのですね、あははははー。確かに昨日はたくさん泣いたし悩みましたから、精神的に疲れていない訳がありません。





けど。





「ふ、ざい…ちゃくしん?」





が、じゅうさん、けん。

じゅうさん、十三、13件…








ぱちっ、と一瞬にしてまどろんでいた意識が覚醒し、お腹の中のエンジンが稼動し始めました。手ぐすが切れたあやつり人形のように、身体をベッドに縛り付けられていたわたしの身体は、それを引きちぎるようにがばっとベッドから身体を勢いよく起こしました。視力と聴力が一気に戻り、いつものように楽譜に起こすとおたまじゃくしが一小節に何個踊るのだろう、ハイテンポに甲高い音色を奏でるベルの音が耳についたので、ばしぃん!と手でストップボタンを押さえつけました。途端にしぃーん、と部屋が静まり返ります。





もしかしたら、もしかしたら。静寂が訪れた部屋で一人、わたわたと慌てふためるわたし。
ひょっとしたら、ひょっとするかもしれません。昨日からずっとわたしが待ち望んでいた、人から。





自然とふるえる指、不安、緊張、期待が入り混じってよくわからない状態になっています。
ぽちっと、キーを押して着信履歴を確認すると。






幸村精市







の文字がずらり、と。時間帯は昨日の夜に8件、今日の朝に5件。






幸村くんだ。幸村くんから電話が、しかもこんなにたくさん。
わたしを見捨てたわけじゃないの…でしょうか?連絡があったことは嬉しいです。でも、直接声を聞いたわけではないので、幸村くんの真意がわかりません。






「あ、メール…」






そうだ。メールも来ていたはずだ。あれだけ来ているのだから、1件くらい幸村くんから来ているはず、と思いたい、です。
こんなにも自分が弱気で意気地なしだとは思いたくはありませんが、わたしの辞書に「断定」という言葉はありません。いいことも悪いことも、決めつけてしまうて後から違った時のショックにわたしが絶えられないからです。だから最初からちょっとだけ、諦めている方が楽なのです。わたしはただ傷つくのが怖い、卑怯な人間なのです。






メールボックスを開くと。そこもやはり幸村精市の文字で埋め尽くされていました。何通かはわたしの思ったとおり、メルマガや友人からのものでしたが、新着メールのほとんどは幸村くんからのものでした。





『電話、返せなくてごめんね。さん、どうかした?』
『大丈夫?無理してない?』
『心配だよ。メール見たら返事ちょうだい』






昨日、わたしが電話しただけでここまで連絡をくれるなんて。
うれしさよりも驚きが勝り、信じられない気持ちでいっぱいです。
本当に幸村くんはわたしを嫌いになったわけではないのでしょうか。たくさん電話もメールもくれたけれど、やっぱり卑屈なわたしを納得させるには決定打に欠けるのです。言葉だけじゃなくて本人の口から真実を。どうして電話してくれなかったの?わたしのこと、まだ好きですか?わたしを側に置いてくれませんか?鬱陶しいことは自分でもわかっています。でも、心配でたまらないのです。自分でも呆れるくらい不安なのです。だからと言って、あれこれ詮索するのもどうかとは思いますが、でも。

さっきからわたし、自分のことしか考えていませんよね?幸村くんの意志を無視して、何かにつけて「でも」と自分の意見を正当化してばかり。いつから、こんなに卑屈で陰湿な人間になってしまったのだろう、わたしは。こんなんだから幸村くんが連絡くれないのかも。さすがに幸村くんも、こんな人間と付き合うなんてこと、やってられませんよね。そして、やっぱりこんなにもマイナスなことしか考えられない自分に軽く失望。もうちょっとまともなことを考えられないのか。これを機にちょっとは改善されればいいのですが…無理だろうなぁ、根本がマイナス思考だから。










と、「!!!!」下の階からお母さんの大きな声が聞こえて来ました。いつになく慌てた様子で、声を荒げています。わたしが汚水をかけられても何も言わず、冷静に対応してくれていた人とは思えません。また、わたしの家は柱や欄間などなく、その代わりに1階から2階にかけて吹き抜けていて、かなり解放的です。つまりは、音を吸収しやすい木造ではない築10年の鉄筋製の家屋なので、日本家屋よりも音が反響しやすく、余計声が大きく聞こえるのでしょう。






あまりの大声にびっくりして、2階にあるわたしの部屋から外に飛び出して、なぁに?と、階段を降りずに、吹き抜けを利用して、階下の様子を伺います。








なんということでしょう。
思わず眼を疑ってしまいました。お母さんがびっくりする、いえ狼狽える理由もわかります。だって、「こういうこと」とは今までわたしとは全く縁がないと思っていたでしょうから。
わたしの声に反応し、わたしの姿を視認したお母さんは、条件反射のようにすぐさまわたしに向かって叫びます。叫ばれているこっちが恥ずかしくなるくらいわかりきったことを。








「おっおぉおおお男の子よ!!」









えぇ、わかっています。見れば男の子だってわかります。また、わたしはその人のことをよく知っています。だってその人はこの1週間、わたしの隣にずっといた人で、わたしが今、最も恋焦がれて止まなくて、わたしを今、一番悩ませる人なのですから。








「おはよう、さん」






幸村くんが。幸村くんがわたしの家の玄関に立って居たのです。