7日目






突然、わたしの家にやって来た幸村くん。時刻は午前8時30分。今から学校へ行くとすれば、完全に遅刻です。お付き合いを始めて初日、遅刻しただけで肩を落としてしょぼくれていた幸村くんが。

時間を気にしていないのかはわかりません。いえ、気にしているに決まっています。けれど、わたしなんかのためにわざわざ家まで来てくれて。迎えに来てくれたのでしょうか?朝も何度も幸村くんから電話をしてくれていたのに、電話に出なかったわたしを?
そんなわけはない。だって間に合いそうになかったら、さっさとわたしをほっといて学校へ行けばいいだけの話じゃないですか。じゃあ何のために?何で幸村くんはわたしの家に来たの?



わからない。幸村くんの真意も掴めない。




どうしよう。頭が混乱して勝手に、自然と視界がぼやけてきました。水の中で眼を開けているかのようにゆら、ゆら、と視界が揺れます。涙なんて出尽くしたと思っていたのに、何でだろう。いくら堪えても、涙は止まらない。泣くな。泣いたら失礼でしょ。今ここで泣いたら、幸村くんのせいで泣いたみたいになっちゃうでしょ。


涙を堪えるために、わたしは俯き、必死に歯を食いしばりました。涙を急いで拭って息を止め、嗚咽を殺します。泣き始めだったので、涙は案外早くに引っ込みました。けれど、顔を上げることはできません。幸村くんの顔を見てしまうと、また涙が溢れそうだからです。また会えたことに対する喜びと、何故という戸惑い、色々な気持ちが溢れ出て来て、それらの気持ちが「涙」と共に溢れ出て、空気に触れるだけで昇華していくのです。




さんと、少しだけ。話す時間をいただけませんか?」




幸村くんは俯いたままのわたしではなく、お母さんに尋ねました。目を合わさないという失礼な態度を取っているわたしなんかよりも、何がなんだか理解していないお母さんの許可を取った方が、「幸村くんとお話をしなければならない」という強制的な力が働き、懸命であると思います。…こんなイヤな考え方な自分が非常に恨めしいですが、そう思うのです。

幸村くんにそう聞かれたお母さんは、幸村くんに対して「どちらさま?」と無粋なことは言わず。ただ「、部屋に上げてあげなさい」と一言わたしに言うだけでした。

ひょっとしたらお母さんは気づいたのかもしれません。わたしと幸村くんがそういう関係であること、またわたしの様子がおかしいのは幸村くんにあることを。幸村くんのせいでおかしくなった、と考えること自体、人のせいにしているようですごくイヤなのですが(なぜなら、気の持ちようでどうにでもなる問題だからです)わたしが変になってしまったのはいわゆる「恋煩い」というものなので、幸村くんが要因となっていることに違いありません。





さん」





名前を呼ばれて、幸村くんの顔を窺うように、そっと顔を上げて様子を見ると。今まではニコニコと、それでいてどこか柔らかい笑みをわたしに向けて浮かべてくれていたのですが。
今の幸村くんは遠目でもわかるくらい、むっつりと無表情で、




「少しいいかな?」




いつもの明るい声は何処へ行ったのでしょう。落ち着き払った静かな顔でわたしに言うのです。


もうダメなのかもしれない。わたしの望みがついえるのかもしれない。


絶望感が心を支配する中、わたしは静かに。それでいて小さく、叱られた子どものように、こくり、と頷いたのです。








わたしの部屋に入り、お気に入りのパウダービーズのクッションに、幸村くんは座ってもらうことにしました。そして、幸村くんの前に、テーブルを挟んで、わたしが座ります。お母さんが持ってきた冷たいお茶を差し出すと「ありがとう」とニコリともせずに、わたしに感謝の意を述べます。


布団の白、机の白、座布団のアイボリーなど、淡白な色を貴重にしたわたしの部屋は、朝日を反射して部屋全体を明るい雰囲気にしているはずなのに。幸村くんから発せられる心なしか暗い雰囲気が、まるで槍のようにわたしに突き刺さって明るさを相殺、いえ払拭して重くのしかかります。要は「部屋は明るいのに空気は重苦しい」ということです。空気より軽いと言われる水素や酸素、ヘリウムがわたしの部屋の空間にだけ存在せず、空気より重い二酸化炭素しかないかのように、息苦しいのです。この部屋を水で満タンにしたら、トン単位のスパークリングウォーターができること間違いなしです。石灰水を入れたならば、カルピス並の濃い白濁色をした液体ができあがることでしょう。







「もう、やだよ」 

「えっ」






一人で重苦しさ、息苦しさに耐えていると。ぽつりと、そしていきなり幸村くんが呟きました。とっさのことで、つい口が頭よりも先に出てしまいました。いつものわたしならその言葉を聞いて「何なの?」と負のスパイラルに陥るところでしたが、それってどういうことなの?と、わたしが考えるよりも早く、幸村くんがわたしに聞いてきました。





「て、どういうこと?」





それはわたしが今しがた思ったことを代弁するかのように。幸村くんの眉間にはぐっと皺が寄り、表情は険しさを増しています。先ほどからな無表情ではありませんが、明らかに機嫌はよろしくないのが手に取ってわかります。

何か粗相をしたのでしょうか。いえ、わたしはいったいどんな粗相をしたのでしょうか。幸村くんを不快にさせるようなことを、わたしは一体何をしたのでしょうか。一昨日、幸村くんに黙って早退したこと?昨日、勝手に幸村くんに電話をしたこと?今日、連絡もせずに待ち合わせ場所に行かなかったこと?あ、そう言えば昨日、幸村くんに電話した時、「もう、いや」みたいなことを言いましたね。うん。言いましたね。ひょっとしたら、それかもしれません。泣いて、頭がこんがらがっていたのであまりはっきりと覚えてはいませんが、このことを幸村くんは言っているのでしょう。そして、この言葉が気になったからこうして訪ねてきたくださったとか?いえいえ、考えすぎです。現にこうやって顔を顰められているのです。










「す、すみません」






幸村くんに向かって頭を下げます。今までの身勝手な行為、許してもらえるわけがありませんが、謝らずにはいられないのです。幸村くんの機嫌が悪いのがわたしのせいならば。嫌われたくない。嫌われたくないから謝るしかない。謝ることしかできないのです。




けれど幸村くんの機嫌は良くなるどころか更に悪化したようで。ちらっと顔を伺うと、先ほどよりもさらに眉間に皺を刻み、直線を描いていた口はうっすらと開き、そこから見えかくれする歯は食いしばっているように見えました。不機嫌と言うよりかは「いらいらしている」という形容動詞がぴったりくる表情で、幸村くんはわたしに「ちゃんと俺の質問に答えてよ」と、声を振り絞るように、小さく掠れた声でおっしゃいました。独り言のように、わたしに聞こえるか聞こえないかの声で。幸村くんはイライラした顔のまま、わたしを見ました。静電気が破裂したように、ぱちっと音を立てて眼が合いました。

その瞬間、どういうことでしょう。イラついていた幸村くんの顔が、いえ、眼が寂しそうな色を帯び始めたのです。眉間の皺は刻まれたままですが、眉尻が徐々に下がり始めているのです。それに比例するかのように、食いしばっていた歯は力が抜ける所かますます噛みしめ、口角が下がり始めています。今にも泣き出してしまいそうな、悲しそうな顔を幸村くんはしたのです。

幸村くんががっかりした顔は見たことがあります。が、今回わたしの眼の前でしている顔はがっかりというより「傷ついた」という表現が的確かもしれません。
このような顔をされたのは、わたしに原因があることは明白です。わたしが言葉を発した後に顔が曇りだしたのですから。謝らないといけません。





「すみませ」

「もう、それは聞き飽きたよ!」





わたしの言葉を遮って幸村くんが声を荒げました。その声は、その細い身体のどこから出てくるのでしょう、というくらい大きな声で。穏やかな喋り口調から一変し、激しく熱の隠ったものとなったのです。

幸村くんには今までたくさんびっくりさせられて来ましたが、今回が一番驚かされました。だって幸村くんは王子様のように柔和な笑みを称え、温和な話し方をする人だと思っていたから。やんちゃな部分もあるけれど、けして。自分の心内を叫ぶような人だとは思っていなかったから。

幸村くんの雰囲気に圧倒され、ただ、わたしは呆気にとられていました。いつものマイナス思考も、謝罪の言葉も出ず、ぽかんとバカみたいに口を開けるしかなかったのです。





さんはいつもそうだ」





先程と同じで、振り絞るように幸村くんは言います。





「何かある度にすぐ謝る」

「…すいま」

「ほら、また謝る」

「………」





思わず口を噤んでしまいます。確かにすぐに謝るのはわたしの悪い癖です。何も悪くなくても謝ってしまう気の弱さがわたしの欠点です。





「それでいて自分の希望は何一つ言わない」





確かに。自分の気持ちを吐露したことはほとんどありません。何がしたいかも幸村くんに言わず、常に幸村くんに合わせて行動していました。幸村くんの行く所行く所、すること為すことにただ従うだけ。自分が何がしたい、と伝えたことはありません。ただ、一度だけ「手をつないで歩いていたい」とは言いましたが。
でも、それはわたしの我が儘であって、希望ではないような気が、しないでもないのです。


一体、幸村くんは何を言いたいのでしょう。確かに、自分の意見を押し殺してはいましたが、暴走気味の幸村くんに対してはわたしなりに臍を曲げてみたり、自分なりの意見もぶつけたつもりです。けして自分の意見、希望を全く言わないということはなかった、とわたしは思います。


幸村くんは一体、何が言いたいのだろう。わたしは幸村くんではないのでわかりませんが、「ねぇ」とわたしに話しかけた幸村くんのその言葉の先に何か見つけることができるでしょうか。答えではなくても、ヒントでも。わたしが何か感じ、見つけられたらいいと思います。






「この一週間、俺ばっかり浮かれてたの?」






幸村くんの言葉は弱々しく、表情を拝見すると今度は瞳だけではなく、顔全体で悲しみを表現しているかのように、瞳はうっすら潤み、眉尻は完全に垂れ下がり、何かを堪えるかのようにぐっと歯を食いしばっています。先ほどから続く重苦しさもどこかへと失せています。幸村くんは悲しそうな表情のまま、





「俺のことを好きにはなれなかったの?」






と、わたしに問いかけたのです。

好きになれなかったはずがありません。好きです。幸村くんのことが、とても。今日だって朝起きられなかったのは幸村くんのことが好きで好きで溜まらなくて、気になって気になって仕方がなくて。幸村くんを思うと胸が苦しくて、常にわたしの方を向いていてほしいという気持ちが強くて。でも、そんな独占欲でわたしは幸村くんを縛りたくなかった。自分の気持ちを吐き出すことによって、幸村くんを困らせたくなかったから。だから何も言えなかった。

こういうことを今、正直に言うべきでしょうか。少なくとも今、自分の気持ちを言わないと今度こそ幸村くんを失ってしまうかもしれません。昨日の一件は所詮、空論でしかありません。だって、幸村くんの顔を見て話したわけでも何でもないから。わたしが勝手に勘違いして勝手に泣いて。そして、わたしの言葉を聞いた幸村くんがこうして会いに来てくれた。そして、わたしのためだけに今、悲しそうな表情を向けてくれている。どうしてそんなに悲しそうなのかは、わたしが幸村くんでなくとも、なんとなくわかります。彼の前後の言葉から考えると。





きっと、幸村くんはまだわたしを好いてくれているのです。
だから、わたしが何も言わないのが腹立たしい。
わたしの昨日の電話での発言が気になる。




そう考えると何もかも合点が行きます。




不謹慎極まりありません。昨日から感じていた不安感が拭い去られ、もやもやと胸を覆っていた霧は晴れ、雲間から光が差し込み始めたのです。幸村くんはわたしのせいで、こんなにも悩んでくれているというのに。幸村くんの表情とは対照的に、わたしの顔はきっと。どんどん晴れやかなものになっていふと思います。顔の筋肉がどんどん上へ引き上げられて行くのがわかります。

もし、神様という存在が現実にいるとしたならば、その方が天から糸をわたしの顔に垂らして、引き上げているのでしょう。だって本当に。自分でも信じられないくらい、わたしの顔は満面の笑みを称えているのがわかるのですから。そして、神様は空から笑顔を与えてくれただけでなく、わたしにもう一つ。重要なものをくれたのです。それはわたしに圧倒的に欠けているもの。勇気です。自分の気持ちを正直に話す勇気。

わたしは卑怯です。確かな証拠がなければ自分の胸のうちを明かすことができないなんて。幸村くんは当初、わたしが彼に気持ちがないことを知りつつも、勇気を出して告白してくれました。すごい人です。

だったら、わたしも自分の気持ちをちゃんと言わないと。フェアじゃありません。それに何も言わないままだと、何も伝わらないじゃない。相手に自分の心内を明かさない限り、幸村くんは永遠にわたしのことを理解できないし、してくれません。幸村くんが自分の気持ちをわたしにぶつけるのは、わたしに幸村くん自身を知ってもらいたいからじゃない?そうでしょう?




わたしもぶつけなきゃ。幸村くんに。
わたしの本当の気持ちを言って誤解を解かないと。そして、本当のわたしを知ってもらわなきゃ。







「わたしが何も言わなかったのは、わがままだと思ったからです」



そう、自分の気持ちを言ってしまうと幸村くんに嫌われてしまうような気がしたから。



「自分の気持ちを言うことは相手に対する押しつけだと思っていたんです」



だから何も言わなかった。
言えなかった。


でも、幸村くんを知れば知るほどわがままを言いたくなった。
もっと手を繋いでいたい。もっと、連絡もしてほしい。
もっと、構ってほしい。
もっと、幸村くんのことが知りたい。
もっと、みんなが知らない幸村くんを知りたい。


これから先、2人で色んなことをしたい。


わたしだけの幸村くんで居て欲しい、と思うようになった。


でも、それは幸村くんを縛ることになってしまうから。そんなことをしてまで側に居たいとは思わない。



「ただ、困らせたくなかったんです」

だから、我慢しよう、自分の意見は言わないでおこう、と思ったんです。








一気に自分の気持ちを吐露してから、幸村くんの顔を見ると。先ほどの悲しそうな顔からまた一変し、眼を大きく見開き、まるでびっくりしたような顔でわたしを見ています。時折、ぱちりと数回瞬きをしていらっしゃいますが、依然とわたしの顔を凝視しています。
ただ、わたしを見るだけで何も仰いません。

わたしはと言うと、自分の気持ちを自分からさらけ出してしまったので恥ずかしさでいたたまれなくなっています。自分から服を脱いで幸村くんの前で丸裸、とまではいきませんが下着姿でいるような気分で、思わず幸村くんから視線を反らしてしまいました。心臓がこれでもか、というくらい早く脈を打ち、お風呂にでも入っているのか、というくらい、わたしの全身は熱く逆上せています。


おもむろに、目線だけを上げるとばちっと視線がかみ合ってしまいました。わたしが眼を反らすよりも先に、幸村くんは驚いた顔から今度は。

ニコッと。それでいてふわり、とした。
わたしがお菓子をあげた日以上の笑みを。わたしに向けてくれたのです。

久しぶりの幸村くんの笑顔に、わたしの心臓はさらに反応して、全身に血を風の如き速さで送り出します。幸村くんの微笑に心臓が耐えられない、と判断したわたしの脳はこれもまた、マッハ号もびっくりなスピードで目線を反らしました。
その反応が面白かったのか、「ふふっ」と声を漏らして笑う幸村くん。朝、入って来た時はクスリともしなかったので、その声を聞いただけでなんだかほっとします。幸村くんの機嫌が戻ったんだ。いつもの幸村くんだ。そう思うとうれしくて仕方がありません。思わずわたしも笑ってしまいます。
視線を戻して幸村くんを見ると、彼は依然として笑みを讃えたまま「さん」とわたしに話しかけました。さっきのような、ギスギスした声ではなく、明るく穏やかで暖かく。微笑みながらわたしに言ったのです。







さんが俺を独占したいって思ったのはよくわかったよ」


つまり、それってどういうこと?








機嫌が治ったら早速、来ました。サドっぷりがこんなにも憎らしくて堪らない、っ思ったことはありません。正直な気持ちを話したとはいえ、確信に触れないかったのが悪かったのかもしれません。はっきりと自分が幸村くんをどう思っているのかをずばっと二文字で言わなければならないのでしょう。「俺、まどろっこしいのって嫌いなんだよね」とニコニコしながら幸村くんは笑っているのだから。
けれど、ただでさえわたしは自分の気持ちを吐露することがないのに。今日、今で感じていたことを話して。「」という人間の内側をさらけ出して恥ずかしいことこの上ないのに。何とか今、ブラとショーツを身につけているだけの状態なのに。この二文字の言葉を言ってしまえば、丸裸にされたも同然です。わたしのヌードを幸村くんに晒すなんて、穴があったら肩まですっぽり入りたいくらいの恥辱です。







「ほら」

「あの、だから、その」







幸村くんにさらに催促されますが、上手く言葉が出てきません。「このままだったら他の子に気が移っちゃうよ」とシャレにならないフレーズでわたしを焚きつけてきます。でもでも、それでも恥ずかしくて言えないのです。どっぷり幸村くんにゾッコンであることを幸村くんに知られたくない。すっ裸を晒したくないです。
何かいい言葉、幸村くんにわたしの気持ちを婉曲に、それでいて的確に伝える言葉を!
一週間だけお付き合いしただけで、ここまで気持ちが膨らむなんて自分でもびっくりです。自分でも知らなかった自分をこの一週間で知ることになるなんて。



一週間…一週間……期間限定でのお付き合い、ということは、期間を設けたお付き合いだから、それを延長すればいいんだ。や、試用期間だから、それを正規申請すれば告白を受けたってことになるよね?






好きって伝えたことに…なるかな?





わたしは卑怯な人間です。だから、ごめんなさい。幸村くんが期待する答えは用意できないけれど。

いつか幸村くんの前で裸になれる勇気が持てた時、ちゃんと伝えるから。






「お試しから、正規、でお願いしますっ…」





幸村くん、今はこれで勘弁して下さい。