「悪いけど、一緒に帰れないから」

優しい声とは裏腹に、そういった精ちゃんの顔はひどく、ひどく、険しく歪んで見えた。











聞き分けのない子ども













精ちゃんは一つ年上の幼なじみ。
面倒見がよくって頼りになる存在。
強いって言われてるテニス部の部長さんで、みんなからもとても頼りにされてる。
そんな精ちゃんと幼なじみのわたしは、とっても誇らしい。
自慢できる存在。









精ちゃんは昔から優しい。わたしが男の子たちにいじめられてる時、いつも助けてくれた。
わたしが泣いてるとき、すぐに飛んできてくれた。
わたしの側にはいつも精ちゃんがいて、優しい笑顔をずっと。わたしだけに向けてくれていた。





でも、わたしが中学生になってから精ちゃんは変わってしまった。
わたしが泣いてるとき、わたしがいじめられていても、精ちゃんは来てくれなくなった。
わたしの側から精ちゃんが消えてしまった。





精ちゃんのかわりに今、わたしの側には別の男の子がいる。
わたしが泣いてるとき、すぐに飛んできてくれる男の子がいる。わたしがいじめられているとき、助けてくれる男の子がいる。
精ちゃんと全く同じことをしてくれる。
でも、その男の子はわたしと手を繋ぎたがるし、わたしをすぐに抱きしめようとする。
お休みの日には遊びに連れて行ってくれるけど、その後に必ずくちびるにキスをされる。










友だちが言うには、その子とわたしは「おつき合い」をしているらしい。
だから、わたしは精ちゃんと一緒にいちゃだめなんだって。
精ちゃんと一緒にいる事は、その男の子を「裏切る」行為になるんだって。









でも、わたしはそう思わない。
その子がわたしとお付き合いをしているんだとしても、わたしは精ちゃんの側にいたい。
精ちゃんと一緒に帰りたいし、お喋りもしたい。
それをお付き合いしてるからってまわりから、その付き合ってる子から制限されるのは、おかしいと思う。
精ちゃんはわたしの幼なじみ。中学からの短いおつき合いの子にいろいろいわれたくない。














「精ちゃんは、どうしてと一緒に帰ってくれないの?」










最近、精ちゃんはわたしと一緒に帰ってくれない。









「俺は部活があるから。には合わせられないよ」

「じゃあ、待ってる」

「待ってたら遅くなるだろ?おばさんたちが心配する」
















精ちゃんは昔からすぐお母さんを引き合いに出してくる。
お母さんが心配してるからって家に返そうとする。
まるでわたしを子どものように扱ってるみたいで、そういうとこは好きじゃない。











「精ちゃんと一緒って言えば、ママは心配しないよ」














昔からの仲だもの。
お母さんは精ちゃんをとても信頼している。
たとえ、夜遅く帰っても、「精ちゃんと一緒だった」って言えば大抵のことは許してくれるの。
だからうちのことを心配してくれなくても全然大丈夫。
なのに、精ちゃんはずっと顔をしかめたまま一言。










には赤也がいるだろ」













赤也。






と、いうのはわたしと「お付き合い」している男の子の名前。
わたしと手をつないだり、抱きしめたり、ちゅってキスしたりする男の子の名前。
精ちゃんの後輩で、いつも元気な男の子。
わたしを好きだと言う男の子。








わたしも切原くんはきらいじゃない。
でも、好きでもない。
付き合ってるのも、切原くんがどうしてもって言うから断れなかっただけ。
手をつなぎたいって言ったのも切原くんだし、抱きしめたいって言ったのも切原くん。キスをせがんだのも切原くんだもん。








わたしは切原くんに何一つとして望んでない。
切原くんが一方的にわたしを好きなだけで、わたしは切原くんが好きなわけじゃないもん。
切原くんよりも、は精ちゃんの方がいい。精ちゃんの方が好き。
男の子の中で一番精ちゃんが好き。
精ちゃんとなら手をつなぎたいし、ぎゅって抱きしめてほしいし、チュウもしてほしいと思う。
きっと精ちゃんのキスは甘い。甘くてとろけそうになると思う。そして優しい。
切原くんみたいに、乱暴でぶきっちょじゃないはず。










「切原くんは、好きじゃないもん」











素直に自分の気持ちを言っただけなのに、精ちゃんは何か、すごいものでも見つけたみたいに目を大きく開けて。
その後、しかめっ面をして汚いものでも見るようにわたしを見た。
精ちゃんが、にそんな顔をするのは初めてで、すっごく悲しくなった。
精ちゃんはいつだって、優しい笑顔を向けてくれていたのに、今を見る精ちゃんは悪魔みたいに怖い。
精ちゃんが精ちゃんじゃないみたい。









が一番好きなのは精ちゃんだもん!」










が精ちゃんに訴えるけど、精ちゃんはずっとむっつりとしたまま。
何も喋らない。
どうしよう。精ちゃん、怒っちゃったのかな。
怒った精ちゃんなんて、初めて見る。
いつも優しくて、柔らかく笑いかけてくれる精ちゃん。
なのに、精ちゃんは今。ううん、中学に入って突然精ちゃんは優しくなくなった。
他の子には優しいのに、にだけ全然優しくない。
そんなのヤだ。だけ、なんてヤだ。











「…精ちゃんは…が邪魔?」












そうだ。
が邪魔だから、こんな意地悪するんだ。
なんかあっち行っちゃえ!て精ちゃん、思ってるんだ。









のこと、いらないんだ」










のこと、いらないからそんな意地悪するんだ。

のことなんかどうでもいいから。























精ちゃんがおっきなため息をついた。
その息では吹き飛ばされちゃいそう。
そんなにがいらない?そんなにが嫌いなの?
どうして?、何もしてないのに!
精ちゃんが嫌がること、何もしてない!
なのに、なのに、なんで!?なんで精ちゃん、を嫌がるの!!?









精ちゃん、が嫌いなんだ!
を嫌いになっちゃったんだ!
だから優しくないんだ!















「精ちゃん、嫌いなの!?」

「…

、なんにもしてないよ!!?、いい子にしてるよ!!!?」



「なのに精ちゃんは!」

!」












精ちゃんが怒鳴った。

に一度も怒ったことない精ちゃんが。









怒った。













「…本当……いい加減にしないと怒るよ?」












精ちゃんの声はすっごく低くて、今まで聞いたことないほど暗くて、怖くて。










はこんな精ちゃん見たことない。












精ちゃん、本当に怒っちゃった。
、精ちゃんを怒らせるようなこと。した?
は精ちゃんが一番好きなのに。大好きなのに。
そんなことするはずない。
何かの間違いだよ!精ちゃん!












でも、が精ちゃんを怒らせたことに変わりはなくて、精ちゃんが何に怒ってるのかわからないけど、謝らなきゃいけないのは雰囲気でわかる。
でも、謝る理由がわかんない。
何でが謝らないといけないの?
勝手に怒った精ちゃんがに謝るべきなんじゃないのかな?









でも、はいい子だから、ちゃんと精ちゃんに向かって「ごめんね」って笑いかけた。
精ちゃんはごめんねをするとすぐに許してくれる。
にこって笑うとすぐ、精ちゃんも笑いかけてくれるんだ。












でも、精ちゃんは許してくれなかった。
笑ってくれなかった。を氷のような冷たい目で、氷のように冷めた顔で見てた。









「……本当に悪いと思ってるの?」








精ちゃんがに言った最後の言葉だった。
















精ちゃんはにくるりと背を向けて、歩きだした。
を許すことなく、すたすた歩いてく。
の頭は精ちゃんのことでいっぱい。
精ちゃんがを許してくれなかったことでいっぱい。







呆然としてたけど、その中ではっきりとやらなきゃいけないことはわかってた。
精ちゃんを引き留めなきゃ。
そんで、許してもらわなきゃ。
何を?そんなのにはわかんない。
でも、許してもらわなきゃ。
、精ちゃんにほんとのほんとに嫌われちゃう。










「ごめんなさい!」








はお腹の底から叫んだけれど、精ちゃんにも聞こえてたと思うけど、精ちゃんは全然気にしないで、を無視して歩いてく。
は精ちゃんに追いつくように、がんばって走るけど、全然追いつく気がしない。
は足を一生懸命動かしてるつもりだけど。
全然、前に進まない。鉛でもひっつけてるみたい。










「ごめんねっ…ごめんなさいっ…精ちゃん!」










もう、悪いことしないよ!
、精ちゃんを怒らせないから!
を嫌いにならないで!!!
悪いとこあったら治すから、のどこが悪いのか言って!
黙ったままなんてズルイよ!
の何がいけなかったのか、わかんないよ!
わかんないまま嫌われたって、どうしたらいいの!?









やっと、追いついて精ちゃんの腕を掴んだけど精ちゃんに振り解かれた。
その反動で、の体は後ろに吹っ飛んだ。
精ちゃんは細いのに、どこからこんな力が出てくるんだろう。
そんなに強く振り解くほどが嫌いなのかな。







おもいっきり廊下で体を打った。
すごく、痛かった。でも、心の方が痛かった。






精ちゃんはちらっと、吹っ飛んだを見た。
その時の顔が、眉間に皺がキュッて寄ってたけど、眉尻は垂れ下がってて、目は氷じゃなくって、優しいいつもの精ちゃんの目だったから。
許してくれたんだと思った。









「精ちゃん」









が呼びかけた。
でも、精ちゃんはが大丈夫なのを確認してから、すぐまたむっつりした顔に戻って、さっさと行ってしまった。








どうして。
精ちゃん、許してくれたんじゃないの?
今、を心配してくれたんじゃないの?









も立ち上がって精ちゃんを追いかけようとするけど、体を打ったからか、心が痛いからか上手く力が入らない。
それとは逆に、目に力が入っちゃってるみたいに、視界がぐらぐら揺れてきた。
喉と胸のあたりにも力が入ったように、がたがたふるえちゃう。
精ちゃんの姿がぼやけながらも、お米みたいにちっちゃくなっていく。
すぐにでも精ちゃんを見失いそう。













「精ちゃん…せぃちゃん!!」











やだ。
やだ!やだよぉ!
行っちゃやだよ、精ちゃん!
置いて行かないでぇ!!!
を一人ぼっちにしないでぇ!










「せいちゃん!!!!」















どんなに叫んでも、二度と精ちゃんはの元へ戻って来なかった。

だからもう、精ちゃんの隣には居れない。
精ちゃんの隣にも、は居れない。









精ちゃんはもう。








のとこには戻って来ないんだ。