沈んで行く。
海や湖なんかじゃなくって、ドロドロの沼に。
その沼はどうしてこんなにもヘドロで汚れているのだろう。
あぁ、これはきっと僕の心の汚さ。
僕の心が醜いから、僕の中にあるキレイな海は、湖は、どろどろしたものになってしまったんだ。
引き込まれて行く。
二度と這い上がれないかもしれない。
だってこんなにも両手が、両足が、身体が動かない。
息もままならない。
沈む瞬間、先輩を思い出した。
いつもの先輩の笑顔じゃなくて、弱々しく見せる「あの時」の笑顔だった。
ギラン・バレー症候群。
に、類似した病気。
沼から人為的に引き上げられ、目覚めた僕に告げられた耳慣れない名前のこの病気は、どうやら神経を犯すものらしく。
僕の身体が急に動かなくなったのもそのせいらしい。
そして、投薬治療以外にも手術を受けなければならない。
そして、さらには検査と治療のため、しばらく学校へは行けない。
もちろんテニスなんか出来るはずもなく、ましてや病院から出ることすら叶わない。
医者からこの告知をされた時、親は慌てふためき、何とかならないものか、と医者に詰め寄っていたけれど、
なぜか僕は冷静だった。
今の僕にとっては病気になったことよりも、学校へ行けないことの方が問題だった。
テニスもできない、友達とも話せない。
それから
先輩にも会えない。
先輩は今どうしているのだろう。
ご飯を食べている時も、検査の合間も思うのは先輩のことばかり。
僕の居ない間、また嫌な思いをしていないだろうか。
殴られてはいないだろうか。悲しい思いをしていないだろうか。
そう考えるだけで僕の心ははちきれんばかりに不安でいっぱいになり、
病院を抜け出してまでも先輩に会いたくなる。
元気ですか?
どうしてますか?
まだ、ちょっとの間しか離れていないのに、もうずいぶんと先輩に会っていない気がして、
病院から出られないことをもどかしく、歯痒く感じる。
部活や勉強のことよりも、先輩のことが何より心配だった。
それだけ先輩が好きってことなのかもしれない。
そう思うとさらに、抱え込むイライラが最高潮になった。
そんなある日。
僕が入院して2週間と3日経った、まだ秋の名残が強く残っているのに、まるで冬のように寒いある日。
いい加減、学校にも行けず好きなテニスも出来なくて、イライラしていたある日。
先輩に会えなくて、さらにイライラしていたある日。
先輩が僕の病室へやって来た。
その日も午前中は検査で、しかも大嫌いな採血(痛い上に血がグロテスクだから)、僕の機嫌は最高潮に悪かった。
はっきり言って病院に来てから、機嫌がいい時はなかったと思う。
あえて言うとしたら、初日が一番機嫌が良かった。
でも、日が経つにつれて、病気が進行し、
思うように動けないという苛立ちや、学校に行けない寂しさ、テニスを出来ない歯がゆさ、先輩への恋慕
が積もり積もって、ストレスでどうにかなりそうだった。
けれど、この日は違う。
検査を終えた僕が病室に帰ると、僕のベッドに誰かが寝ていた。
ただでさえ、イライラしてるのに、誰だ。
いつもの穏やかな性格の僕ならまだしも、気が立ってどうしようもない僕はたったそれだけのことなのに腹が立って、
僕は薬のおかげで、まだある程度自由の利く腕に力を込めて、
僕のベッドで悠々と眠る誰かが潜っている布団を剥ごうと手をかけ、力を入れて引っ張った。
けれど。
なぜか、剥げない。
僕の力が極端に衰えたのだろうか。
いや、いくらなんでも1カ月も経たないうちに、病気でここまで力が衰えるなんて考えられない。
仮にも運動部なんだし。
だから、寝ている人間が布団を剥がされまいと、僕の力に反抗しているに違いない。
「幸村くんって、けっこう強引なんだね」
突如、布団の中からくぐもった声が聞こえた。
声は特別高いわけでも、低いわけでもない。女性の声だ。
聞き覚えのある懐かしい、久しぶりに聞く声の主は。
「久しぶり」
布団の中から現れた。布団から顔を出して、起きあがって来たのは
「先輩…」
僕の大好きな先輩だった。
先輩はいつものふんわりした笑い方、ではなく、「してやったり」とでも言うかのような意地の悪い笑みで僕に笑っていた。
それから、びっくりしている僕の顔を見られたのが嬉しいのか、先輩はさらに満足そうにしてにこっと笑った。
いつものような大人びた笑顔じゃなくて、無邪気な年相応の笑顔に僕の心臓は飛び跳ねるかのようにドキドキしてしまう。
(好きになった弱み、というヤツかも)
「具合はどう?幸村くん」
ベッドから下り、くしゃくしゃになった制服の乱れを整えながら先輩は僕に聞いた。
先輩がスカートのプリーツを直すために僕の顔に向かって馬飛びのポーズを取るため、かがんできた。
胸を突きだしているその仕草が、制服越しだというのに…て、変態か。
とにかく、なぜだか色っぽくて、どきどきしてしまう。
「だ、大丈夫です」
しどろもどろになって答えると、先輩は「よかった」とまたニコッと笑った。
先輩こそ大丈夫なんだろうか。
あの一件から先輩とは会っていないから…何かされてはいないだろうか、と心配で仕方ない。
先輩はけして弱いところを見せようとしない人だから、また僕の前で強がりを見せているのかもしれない。
僕のいない所で傷ついているのかもしれない、と思うと居ても立ってもいられないし、胸がひどく痛む。
「先輩も、あれから何かありましたか?」
恐る恐る先輩に尋ねてみる。
古傷を抉っている感じで嫌だったけれど、そこはどうなっているのだろうか気になるから。
図々しく聞いてしまうことを許してください。
先輩はこの間みたいな悲しそうな笑顔を見せず、いつもの優しい笑みを浮かべて言った。
「大丈夫だよ」
と。
その笑みは作られたものではないと思う。
だって、前は困ったような笑い方をしていたけれども、今はそれが感じられないから。
にっこり、と。心から笑っているように思う。
先輩を苦しめるものが取り除かれたのかもしれない。
先輩の身体を見れば、まだ傷は完治していないけれど、新しい傷は増えていない。
あれから何もされていない証拠だ。
「柳くんって子がね。助けてくれたの」
本当、感謝してる。
先輩の口から出てきた聞き慣れた名前。僕は素直に驚いた。
柳が先輩を助けていたことは意外だった。
柳は自分の興味があるもの・こと以外には無頓着だから。
先輩を助けたということは、
柳は先輩に興味を示したのだろうか。
もやもやする。
負の感情が取り巻いて、自分がどんどん醜くなる。
柳は先輩を助けてどうしようとしたのだろうか。
俺のいないところで、どうにかなろうとしたのだろうか。
俺の気持ちを知ってるくせに?
俺から先輩を奪おうとしたのか?
とんだ偽善者だな、柳。
いや、そんなこと考えてはいけない。
柳はそんな奴じゃない。
きっと、柳は俺の気持ちを知ってる上で先輩を助けてくれたんだ。
さらに病気の俺を安心させようとしたに違いない。
柳はそんなに悪い人間じゃない!絶対にだ!!
これだから病気は困る。
病室という狭い籠の中に閉じこめられ、外界との接触を絶たれてしまうから。
外のことなんか全くわからなくて、わからないがために卑屈になって行く。
そんな卑屈な自分が嫌だ。
卑屈さが出てきた瞬間から自己嫌悪も現れてくる。
友達さえも疑って、恥ずかしいと思わないのか。
みっともない。
恥ずかしさと惨めさから眼を閉じた。こんな負のオーラ出しまくりの自分を先輩には見られたくなかった。
いつも弱いところを見せてばかりいたけど、こればかりは「弱さ」と違う気がする。
いや、性格には「今まで」の「弱さ」と違う。
弱さは弱さだけど、女性に知られたくない、「男」としての「弱さ」だと思った。
両手に温もりを感じた。
ろうそくの火がぽっと、灯されるような優しい温もりを感じた。
ぎゅっと閉じていた眼を開けて自分の手を見る。
力を入れていたせいで、最初は焦点がはっきり定まらなかったけど、やがて僕の視界は、世界を、形を成して行った。
僕の両手には、先輩の両手が重ねられていた。
「幸村くんには感謝してもし尽くせないくらい」
先輩は握っている手をさらにぎゅっと握った。
力が籠もったことにより、温かさが増して来た気がする。
先輩の行動に僕はドキドキしているけれど、緊張はなぜか感じられない。
むしろ安らぎを感じている。
先輩の両手が僕の中の何か悪いものを溶かして行っている、という錯覚を感じる。
先輩の手はとても安心する。
「幸村くんが柳くんにわたしの話をしなかったら、わたしは立海を辞めてたかもしれない」
話、というのはおそらく先輩がリンチにあったということ。
柳が先輩に言ったんだろう。
2人の間に何があったかは知らないけれど、先輩の言い方から僕のことを嫌いになったわけではないらしい。
あくまで可能性の話だけれど、先輩が居なくなるのは嫌だった。
先輩は僕の手を持つ手を緩めて、少し持ち方を変えた。
先輩がさっきまで握っていた箇所は完全に熱を帯びていて、空気に触れて涼しく感じた。
「それより前に、幸村くんが手を握って『大丈夫』って言ってくれたこと」
手もだけれど、先輩の眼はまっすぐ僕の眼を捕らえて放さない。優しく僕の眼と心を射抜く。
「すごく嬉しかった」
ありがとう。
先輩はまた笑った。
首のコルセットがまだ取れてなくて、顔にも痣が残っていて痛々しいけれども。
あの時の悲しそうな笑みに比べたらマシだ。
いつも、僕がお礼を言う方だから、先輩に言われ慣れないことを言われると、なんだか照れくさい。
照れくさい反面、先輩の力になれたことがとても嬉しい。
先輩のためになれたことなんて匆々無いから。
それもあってか、嬉しさが倍増する。
それから、今もそうだけど。
先輩と手を繋いだこと。
僕は自分から先輩と手を繋いだ。
と、いうどうでもいいことを思い出してしまい、恥ずかしさも倍増する。
先輩は僕が嬉しさと恥ずかしさで悶々としているのが楽しいのかクスッと笑った。
(失態を見られたみたいで、尚更恥ずかしい!)
それから「ねぇ、幸村くん」と僕に声をかけた。
「前に一番初めに会った時に、わたしのこと『王子さまみたい』て言ってたの覚えてる?」
覚えてます。
僕がまだひょろひょろで、弱くて泣き虫だった時。
僕は先輩に本気で憧れた。
颯爽と現れ、果敢に痴漢という悪に立ち向かい、僕を助けてくれた先輩は王子さま以外の何者でもなくて。
先輩のような人間になりたいと強く思った。
先輩のような王子さまになりたくて、失敗することも多かったけれど。
何か問題にぶつかる度、先輩は僕に手を差し伸べてくれた。
その度に僕は先輩のようになりたい、と強く願った。
先輩の質問にこくり、と肯定の意味で一度頷く。
「ずいぶん昔だから、忘れちゃってると思ってた」と先輩は屈託のない笑顔を僕に向けてくれた。
先輩の笑顔はいつも、向日葵のように明るくてとても印象的だと思う。
見る人を元気づける、太陽のような人だ。
先輩は握っていた両手のうち、右手を放した。
僕の左手が名残惜しそうに先輩が残した熱を逃がすまい、と急速に吸収し始める。
先輩は外した右手と、僕の左手を交互に見比べて「綺麗な顔でもやっぱり男の子だね」とにっこり笑った。
それから先輩は僕に。
こう言った。
「幸村くんはもう、立派な『王子さま』だよ」
次の瞬間。
体に電流のような何かが駆け巡るのを感じた。
前に先輩と買い物に行ったときと似ている。
王子さま。
先輩は僕をそう呼んだ。
なんということだろう。
僕が先輩にしてあげられたことなんて何もないというのに、ただ病気になって寝ていただけだというのに。
先輩を励ますことすら、ままならなかったというのに。
先輩は僕を、王子さまと呼んだ。
「そんな」
僕はまだまだです。
先輩のように気の利いた事も言えないし、欲しい言葉を誰かにあげることだってできない。
僕が人に優しくするのと同様に、先輩の身を案じたり、手を握ったのもただの自己満足で、本当は中身のない行動だ。
その後、どうなるか、どうするかなんてわからなかったし、考えてもなかった。
ただ、先輩と離れたくなかっただけだった。
王子さまなんて、いいものじゃない。
「僕は…王子さまなんて、いいものじゃない。ただ」
我が強い人間だから。
続きを言おうとしたら先輩は僕の唇に人差し指を軽く当てた。
お母さんが子どもに「しっ」と静かにするよう求めるかのように。
驚いて先輩を見たら、先輩はまた笑った。
「バカだなぁ」と僕に呆れるかのように。
「それでも」
僕にとって驚くべき、そして最も喜ぶべき言葉を残して。
「みんなが幸村くんを王子さまと認めなくても。わたしにとって、幸村くんは王子さまなんだよ」
涙が出そうだ。
本当に嬉しい。
先輩に認めてもらえたような気がした。
いや、ひょっとしたら認めて貰えたと自負していいのかもしれない。
だって、先輩の頬は今まで見たことがないくらい桜色に染まっていて、
いつの間にか僕の手から先輩の手は退かれていて、その手は今。
先輩の桜色から真っ赤なリンゴ色に染まりつつある両頬を包み込んでいた。
いつも、余裕のある先輩だけど今回ばかりは照れくさいのか、終始下を向いていた。
「言い慣れないことって滅多に言うもんじゃないね」とポソリと漏らす独り言が可愛らしくて。
それでいてなぜだか愛おしく感じられて。
僕の身体がスイッチが入ったかのように、起動し始める。
さっきまでは、先輩が訪ねて来るまでは力が入らなかった身体に力が漲ってくる。
本当に僕は病気なのだろうか、そんな疑念さえ浮かんでくるほど身体が僕の言うことをすんなり聞いてくれるんだ。
いや、ひょっとしたら病気のせいで身体が暴走しているのかもしれない。
僕の心は先輩が知っての通り、チキンハートだから。
普段は大胆なことはしないし、できない。
けれども、今はどうだろう。
理性と心に反するかのように僕の身体は動き出した。
自分の顔を覆う先輩の腕を自分の方へくんっと引っ張り、引き寄せる。
当然、先輩は急に引っ張られたものだから、僕の方へ引っ張られる。
ぽすん、と僕の胸の中に半ば強引に引き込まれた先輩は目を人形のようにぱちくりさせて、動かない。
たぶんいきなりのことで、何が起こってるのかよくわかってないんだと思う。
先輩の背中に腕を回し、肩に顔を埋めた。
入学したての時は僕の方が身体が小さかったのに、今では先輩の身体が小さく儚い物に感じてしまう。
こんなにも小さな身体で僕を守ってくれていたんだ、と思うと当初の自分の不甲斐なさがみっともなくて仕様がない。
力を入れると折れてしまいそうな背中にしがみついていた自分が情けない。
「ゆっ…幸村くんっ?」
先輩が声を裏返させて僕の名前を呼ぶ。相当、驚いているんだろう。
そりゃ、驚くよな。いきなり男に抱きつかれてるんだから。
これが知らない男だったら、確実痴漢だし。
て、どうして僕はこんなに落ち着いてるんだろう。
しばらくは氷のようにかちんこちんに固まっていた先輩だけれど、状況を把握したのか、はたまた勘念したのか、
僕の背中におずおずと腕を回した。
それから甘えるかのように、僕の胸に頬を擦り寄せて来た。
そんな仕草がたまらなく可愛くて仕方がなくて、僕はまた嬉しくなって。
抱きしめている腕にさらに力を込めた。
病気なのに、今がすごく幸せに感じられる。
手術も不安だし、検査も投薬治療も苦しいことには変わりないのに、先輩が来てくれて、
さらにこんなにも嬉しいことを言ってくれたからか、明日からがんばっていける気がする。
やっぱり先輩は僕の王子さまだ。
僕がダメになりそうな時、
僕が一番欲しい言葉で僕を励まし元気づけてくれる。
それでも僕が守りたいと思うのは、「」という一人の王子さまのようなお姫さま。
窮地に陥った時には助けたいと思ったり、この両手で苦しみを掬ってあげたいと思うのも彼女だけ。
僕の王子さまであり、お姫さまであることにも変わりはない。
先輩は言った。
僕が先輩の王子さまだ、と。
先輩は受け入れた。
僕が抱きしめたことを拒否しなかった。
その言葉の、行動の真意を深読みしてもいいのでしょうか?
期待してもいいのでしょうか?
先輩の気持ちは僕にあるって…思っていいのでしょうか?
the "princess"
has fallen love with
the prince
先輩を迎えに来た白馬の王子さまは僕ということでいいのでしょうか?
ねぇ、先輩。
fin...?