こんにちは。

幸村精市です。

先輩とは、2人で自転車で帰ってからというもの、全く接触はありません。

こんなことなら、メールアドレスでも聞いておくんだった、と後悔しています。

もうすぐ立海に来て、2回目の夏が来ようとしています。







あの日以来、僕は少しだけ強くなれたと思います。

少なくとも、人の目が気にならなくなりました。別にみんなから頼られる必要はないじゃないか。

無理にそんな人間を作らずとも、誰か今のままの自分を必要としてくれている人がいるのであれば、それでいい。

誰かの王子さまになるのは今からじゃなくてもいい。

先輩みたく、ぽっと出の王子さまでいいじゃないか。それだって立派な王子さまだ。








そう思えるようになりました。












あの日、先輩と一緒に帰った日以後、僕が想像していたより風当たりは穏やかで、むしろ部長の方が勝手に居づらくなっているようでした。

ちらちら僕を見ていて、変に意識されています。

その姿がなぜだか滑稽に思えて、無性に笑いたくなるのです。

内心笑いたい気持ちで、いっぱいで口の周りがヒクヒク痙攣します。







事情を知っている人か見たら、僕はかなり性格が悪く見えていたかもしれません。

ひょっとしたら、変な奴と思われたかもしれません。









悩みがなくなった僕はテニス部で先輩方を次々に破り、気づけばテニス部のトップとして、その腰を下ろしていました。

僕の下に真田や柳が居るといった感じです。

大会でも名を残し、立海に幸村有り、と言わしめるほど、僕の名は全国に響き渡ったのです。

春になると、そんな噂を聞きつけた新入生たちがドッと入部して来て、

上回生になる僕たち2年生は彼らの指導に励んでいます。

もちろん試合の方も、僕や真田、柳がレギュラーとして参戦し、地区大会でも無敗を誇っています。

今では王者立海とまで言われるようになりました。本当に充実した毎日を送っています。










そんな、ある日。

若葉が青く茂る頃、僕は近所で偶然にも出くわしたのです。






そうです。

王子さま、先輩です。












その日はたまたま休日で、

部活もなくゴロゴロしていたら、お母さんにお使いを頼まれて近所の商店街に来ていたのです。

この日のおかずはどうやらカレーだということなので、八百屋さんへ行こうと足を向けたら













突然、右腕に何かに巻かれる感触が。

しかも、そのままものすごい力で後ろに引っ張られ、僕はずるずると引きずられて行きます。











何が何だかわからずに、ちらっと後ろを向くと








先輩!?」










そう。

先輩だったのです。

以前お会いしたときも久しぶりだったのですが、

久しぶりに見る先輩はまた王子さまというよりは女性らしかったです。

しかし、この間はお姫さまのように見受けられたのですが、今日は初っぱなから殺気立っているようで、

まるで戦争にでも行くのか、という印象を受けました。













「せ…先輩?」

「何」














いらいらしたような声で先輩が答えるので、僕はこれ以上何も言えません。

数カ月前に喋った時の優しい口調の先輩はどこへやら。

今は出産間近のウサギのようにピリピリしています。








先輩に引きずられてやって来たのは商店街にあるスーパー。

すごい列です。

入り口からすごい数の人が列を作っています。

しかも僕らのような若い人間はおらず、中年のおばさんが先輩と同じくイライラしながら列を作って待っているのです。

先輩が後ろへ並び、僕がその後ろに並びます。

しばらくすると店員さんから紙を渡され、番号が書いてあることから、おそらく整理券か何かだと思います。

それを見た先輩はチッと舌打ちをしました。










「…遅かったか…」











と一言添えて。

何が何だかわからず、眉間に皺を寄せてしまいます。

いきなり列に、しかもおばちゃんたちの中に並ぶだなんて。

何事なんだろう。

不思議でたまらず、さらに眉間に皺を寄せてしまいます。

すると、それを見た先輩が「あぁ。ごめんね、幸村くん」といつもの笑顔で笑いかけてくれました。

先輩から出ていたピリピリした雰囲気は解けて、やわらかいのほほんとした先輩に戻っていました。
















「久しぶりだねぇ。また身長伸びたね」

「はい。お陰様で」

「すっかり逞しくなっちゃって…声も低くなってるし!女の子にもさぞモテるんだろうねぇ」

「い、いやぁ…」











先輩が僕の腕を肘で小突いてきました。

言い方がおばちゃんくさいのは、おばちゃんに囲まれているからでしょうか。

いや、そもそもがおばちゃんくさい先輩なんですけども。










「えっと…先輩は一体、何しにここへ?」

「ああ!そうだった」










先輩はジーンズのポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出しました。

それは今日の新聞に入っていた折込チラシで、ある商品に赤い丸が大きくつけられていました。

その商品とは玉子。

お一人様1パック限り赤字覚悟の78円。

玉子の相場なんて知りませんが、おばさんたちがこんなにも並ぶということはかなり安いのだと思います。










「玉子…買われるんですか?」

「そーだよ。あ、ハイ。100円。おつりは返してネ」

「俺も…ですか?」

「そのために捕まえたんだけど…」










先輩の言葉がしょぼしょぼ尻つぼみになっています。

俺を強引に連れて来たことを反省しているのか、ありゃりゃ、と先輩は苦笑い。

「まずったかな?」と渋い顔をする先輩は初めて見ます。

その時の先輩が、まるでいたずらをして怒られるのを予測している子供みたいで、可愛いと思ってしまいました。

それが無性にほほえましくて、思わず笑みがこぼれてしまいます。










「いえ。先輩と久しぶりに会えましたし。こんな経験、滅多にないですから」







笑いをこらえながら、僕が先輩に言うと先輩はなぜかムッとした顔をして唇を尖らせました。

その顔は本当に子どもみたいのように幼くて、可愛らしいと思いました。

しかし、そんな表情をしていても中身は先輩。

子どもみたいでも、やはり鋭い方でした。










「今。ガキくせーって思ったでしょ?」











僕の考えなんかお見通し、とでも言うように。

僕をじとっと見る目はどこか冷ややかで、それでも完全に怒っているわけではない、暖かさを感じられました。

先輩のそんな表情に、僕はますます笑ってしまい、もう笑いを止めることができません。










「いや…そんなことはないですよ」










笑いを最大限こらえて返事を返したのですが、当たり障りのない作り笑顔の裏を先輩は看破していたようで

先輩の眉間に深く、皺が刻み込まれています。











「ウソつけ泥棒」

「いひゃひゃひゃっ!」








先輩に思いっきり両頬を抓られてしまいました。

意外に先輩は力が強く、ぎりっと捻るように頬を抓るのでかなり痛かったです。

解放してもらってからも痛みはひりひりと残り、頬をさするとそこが熱を持っているのを感じました。

失礼ですけれども、はっきり言って女性の力ではない、と思ってしまったのです。











「何さ。自分だってちょっと前まではピーピー泣いてたくせにさっ」









と、最終的には過去のことまでほじくり返して来る先輩。

つまりは僕の方こそ子どもと言いたいのでしょう。

まぁ、確かに初対面から僕は先輩の前で泣いてるし、自転車で一緒に帰った時も泣いてるし。

いつも情けない所ばかり、先輩に見せていて本当に恥ずかしい。

でも、僕にとってはカナリ恥ずかしい過去ですが、逆に言うとこの過去が無ければ、先輩とも会えなかったということ。

先輩に会えていなかったら僕はどうなっていたんだろう。

今でも朝の痴漢に遭っていたのだろうか。

満員電車に潰されていたんだろうか。

小さなどうでもいい子どもでくよくよしていたんだろうか。

弱虫で泣き虫のままだったんだろうか。








そう思うと、先輩の存在は僕の中ではとっても大きいんだなって感じます。

先輩が居なければば僕はいくじなしのダメダメだった。

先輩が辛い時に励ましてくれていたから、今の僕がいるんだ。

僕が落ち着いてテニス部にいられるのも、朝の電車を克服出来たのも、みんな先輩のおかげだ。














先輩は本当に王子さまかもしれない。たった2回しか会っていないのに、僕の心に居座り続けるヒーローのようだ。















「昔のことなのに…覚えてくださってたんですか」

「昔つっても、去年でしょ。去年の満員電車で痴漢に遭ったんだよねぇ」

「は、はぁ…まぁ…」











過去のことと言えど、あまり痴漢のことは言ってほしくない。

アレのせいで僕は満員電車にトラウマを持っているのですから。

多少、克服したとはいえ、今でも満員電車に乗るのは怖い。

僕が言葉を濁して返すと、先輩は気を利かせてくれたのか、痴漢の話はしなくなりました。

そしてこんな話をしだしたのです。











「昔はちっちゃくて可愛かったのにさ」













先輩は続けてこう言いました。


















「今では頼もしく、かっこよくなったね」

















先輩がにっこり笑った瞬間、体中がザッと何かが這い回る感触がしました。

心臓が一瞬、ドキッと大きく鳴ったかと思うと、それからずっとバクバク音を立てて早打ちをしています。

全身が熱くなり、特に顔がすごく熱い。頭と心は先輩の優しい笑顔で支配され、先輩の言葉が反趨されます。




頼もしくなった、かっこよくなった、と先輩直々に言われたということは、

先輩にちょっとは認めて貰えたっということだと思います。

王子さまに一歩近づけたと言っても、過言ではないでしょう。











きっとそのことがうれしくて、興奮して、さっきみたいな症状がでたのだと思います。

きっとそうだ。そう言い聞かせているのですが、いつまでたっても興奮とドキドキが止まりません。

先輩の笑顔が頭に張り付いて、言葉が心を鷲掴んで離れてくれません。

何か言わなきゃ、と思うのですが、呂律が回らず何も言えず先輩の顔をじっと見るばかりです。

そう言えば、先輩は小さくなった気がします。僕がいつのまにか先輩の身長を抜いていたんだと思います。

けして細いわけではないけれど、肩幅も僕よりなくて、身体が僕の身体にすっぽり入ってしまいそうなほど小さい。

やることは男前かつおばちゃんだけれども、体格は女の人そのもの。















先輩は王子さまだけれども、その前に女の人。














それを認識すると、急にまたドキドキしてきて、自分が自分じゃないような気がして。

今、以上に何も言えなくなって、口をモゴモゴさせてしまいます。











「…幸村くん?」











僕の行動を不審に思ったのか、先輩が僕の顔を覗きこんで来ました。

先輩の顔がぐんっと近づいて、僕の心はまた高鳴ります。血が顔に集まったように、更に熱くなります。

思わず後ろに後ずさってしまいました。

先輩は怪訝そうに眉をしかめ、首を傾げました。













「幸村くん、なんか変」

「そ…そうですか?」















先輩の言葉にやっと反応できたのですが、それでもやっぱりどもってしまい、お話をするだけでも緊張してしまいます。

さっきまではそんなこと、なかったのに。

先輩はまた首を傾げましたが、「ま、いいけどさ」とそれ以上は追及してきませんでした。

先輩が物や人に固執しない性格でよかったです。本当に。











僕自身、なんでいきなりこうなったのか検討も付かないのです。

先輩の笑顔が頭に張り付いてしまっているのかも、先輩の言葉が耳に、心に残っているのかも。

そして、それを思い返す度にドキドキして、また笑顔をみたいと思ってしまうのかも。

先輩にもっともっと近づきたい、という欲求も出てきました。

先輩と一緒にいたい。それなのに緊張してしまうこの矛盾。

今の心理状態が、自分のことなのに僕には全くわかりません。

一体、僕はどうしたと言うのでしょう。
















しばらくして、おばさんの列が動き始めました。

玉子の即売が始まったみたいです。

すると先輩は一気に殺気立ち、幻覚でしょうか。

サイヤ人のようなオーラが見えます。














「いーい?整理券を店員さんに渡したらダッシュで玉子売場に走んだよ!」















伸脚をする先輩の目は本気です。

その気迫に押されて僕もなぜか手足の柔軟を始めてしまいました。

全力疾走ではないけれども、油断は大敵。

ちょっとしたことがケガにつながります。

その様子をみたのか見てないのか、先輩がニコッと笑って僕の肩を叩き












「頼りにしてるからね、ゆっきー」












僕の頭はどうしちゃったんだろう。






たかだか玉子、されど玉子。

いつでも買える玉子。僕には別に買うものがあるけれど、そんなものは後回しだ。

先輩が僕を必要としている。

僕を頼りにしている。

先輩が喜ぶんだったら、玉子でも何でも買いに行きます。

先輩が僕を必要としてくれるなら、先輩が僕を頼ってくれるなら
















「任せといて下さい」











僕はあなたの力になりたいです。

それだけは混迷している僕の心理状態の中でわかっていることです。








先輩からもらった百円玉を握りしめ、僕はスーパーへの第一歩を踏みしめ。

玉子売場へと走り急いだのです。














A horiday of the prince














「……そんなに張り切らなくていいのに…」





全力疾走をして玉子売場に向かった僕に、先輩がこう呟いたのなんて知るはずもなく