A favorite horse of the prince
「ま、とにかく乗んなよ」
と、ぽんぽん自転車の荷台を叩く先輩。
相変わらずニコニコ笑って先輩は僕に話しかけます。
「立ち話もなんだから。どっか行こ」
そう言って先輩はいまだ涙が止まらない僕にタオルを貸してくれました。
薄いピンクのフワフワのスポーツタオル。
使われた形跡はあまりありません。
フカフカのタオルに顔を埋めると、お日さまとシャボンの泡の匂いがしました。
小さい頃、よく嗅いだお母さんの匂いです。
懐かしくて、つい甘えたくなる匂いです。
「乗んないの?」
ちりん、と鳴らされた自転車のベルを聞いて、なぜだか僕は慌ててしまって、急いで自転車の荷台に腰をかけました。
先輩の腰に手を回すことには抵抗があったので、どこに捕まろうか、しどろもどろしていると、
「しっかり捕まっててね」
先輩は僕の腕を掴んで、お腹に回しました。
当然、僕の胸は先輩の背中に押しつける形になってしまって。
思った以上に先輩の身体は柔らかくて、お腹に回した腕は先輩の柔らかい肌に吸い込まれるように沈んでいきます。
僕のお腹はこんなに気持ちよい柔らかさなんかなくて、むしろ最近はごつごつしていて。
体格は同じくらいなのに、肌の硬度が違うなんて。人間って不思議だな。
「先輩、やわらかい」
「んー…軽くセクハラだけども、美形だから許す!」
僕のさりげないセリフに、先輩は冗談混じりに笑いながら返すと、3回地面を蹴って自転車を発進させました。
最初はぐらぐらと倒れそうだったけれども、段々バランスが取れてきたみたいで、自転車はスムーズに走り出しました。
先輩は宛てもなく、自転車を走らせます。
いや、僕が道を知らないだけなのかもしれません。
先輩なりに道を考えて自転車を走らせているのかもしれません。
「ねー!幸村くん!」
ちりんちりん。
先輩が僕の名前を呼んでからベルを鳴らしました。
声は半年前に聞いたくらいのボリュームよりも大きかったです。
「何ですか?」
「今日は災難だったねぇ!」
「何がですか?」
先輩は一呼吸入れてから、こう答えました。
「テニス部の部長のこと」
この人は本当に、エスパーか何かなのでしょうか。
僕が悩んでいるコトを何でこうもスパッと言い当てられるのでしょう。
「ご存知だったんですか…」
「まぁ、そこそこにね。元カノの方が同じクラスだから。今日の話も人づてだし」
ただ、それだけ。
先輩はちりん、とベルをまた鳴らして、それ以上は話しませんでした。
僕もこれ以上、このコトについては話したくありませんでした。
それに聞きたくもなかった。
僕にとって、今日は災難というより厄日です。
僕にとっては、どうでもいいことに振り回されて。
一体、僕が何をしたと言うんだ。勘弁してほしい。
「本当、バカバカしい…」
何も考えたくなくて、大胆にも先輩の背中に顔を埋めると、さっきのタオルと同じいい匂いがしました。
なぜか、先輩がケラケラ笑い出しました。
先輩の笑い方は女の子が笑うみたいな、おしとやかな笑いではなく、明るくそれでいてさっぱりした笑い方。
豪快に笑うわけではないけど、普通の女の子よりは派手に笑っています。
どうしたもんだと不思議に思い、僕の眉間に皺が寄っていきます。
先輩は再び僕に話しかけました。
「幸村くん、初めて会った時から思ってたけど、おっきい独り言多いねぇ。おもしろいねぇ」
まさか、そんなことを指摘されるなんて。そんなことで笑っているなんて。
むしろ、僕って独り言多いんだろうか。
しかも、そんなに大きい声で独り言を言ってるんだろうか。
急に恥ずかしくなって、先輩の背中からパッと顔を放しました。
すると今までずっと女の子に密着していた、という事実にも気づきさらに恥ずかしくなって、
そう思うとなぜたか先輩を直視できなくなって、僕はうつむくしかありませんでした。
「すいません…」
「えー?何で謝んの?なんか悪いことしたの?」
「その…独り言ばっかで…」
お恥ずかしい。
と、付け加えると先輩はふふっと笑ってまた、ちりんとベルを鳴らしました。
「わたしはね。独り言は頭や心の容量が足りなくなると自然に出ると思ってる」
いつになく、先輩の声は穏やかで諭すような口調でした。
「悩んでる人ってさ。いっぱいいっぱい考えて、いっぱいいっぱい思ってしまって。
考えても答えが出ない、思っても口に出せない。
そういうのがたくさん蓄積されて、頭や心ん中で消化しきれなくなるんだよね。
簡単に言うと、わかんない問題を後回しにして行くようなもん」
ふと気付いたら、自転車は川縁を走っていました。
赤い自転車は、夕暮れのオレンジ色に染まらず、自分は自分と主張するかのように、光を弾き返していました。
「で。問題を後回しにしていけば、『塵も積もれば山と成る』、どんどん増えて行く。
でも、そのたくさんの問題を受け入れるにも容量ってものがあって、いっぱいになってくると吐き出さなきゃいけない。
だから、ぽろぽろと口から自然に言葉が出てくるんじゃないかな?
それでね、出てきた言葉は誰かの空いている受け皿で掬ってあげるの。
そうすれば、ほら。自分も楽になれるし、一度出した言葉を人に預けちゃうんだから、それを忘れたりはしないよ」
先輩は一瞬だけ後ろを向いて、ニコッと笑いました。
夕焼け色に染まっていても、先輩の笑顔は日中のお日さまのようにキラキラ光っていました。
「何が言いたいかって言うとね。幸村くんも何か色々考えてるんじゃないかなぁ?
て思ったの。だから口にぽろぽろ出しちゃうんだよ」
先輩はそう言ったっきり、すっかり黙りこんでしまいました。
詮索なんて、野暮なことをしようとはしません。
きっと、先輩の性格上無理に聞き出そうなんてしないはずです。
僕の口から言うのを待ってくれているのでしょう。
僕が先輩に相談するのを待ってくれていれのです。
そうでなきゃ、自転車に乗せてくれたり、色々と面倒をみてくれたりするはずがありません。
こんな話もしてくれるはずがありません。
本当、やることなすこと王子さまのように男前です。
たいていの女の子は根掘り葉掘り聞いてくるというのに。
この人はそうしようとしない。
必要以上に突っ込んで来ないところが、僕のペースに合わせてくれる所が、他の子みたいに急かさないところが、この人の魅力の一つだと思いました。
先輩は大人なな人なんです、きっと。
先輩は僕の独り言にも、返事という毛布で包んでくれていました。
きっと先輩には、僕が悩んでいることなんてお見通しなんでしょう。
「本当にバカみたいだって思ったんです」
気づけば、無意識に僕の口からはポロポロと言葉が出ていました。
「どうして僕が悪いみたいに言われなきゃいけないんだろうって」
あんなに聞かれたくなかった、触れてほしくなかった話題なのに。
どうしてだろう。
「そんなに好きなら、もっと努力して繋ぎとめておけばよかったんじゃないか。」
さっき起こった部長との一件が溢れ出るように、零れて来ます。
きっと僕は、心の奥底では誰かに聞いてほしかったに違いない。
ただ、さっき部長には一方的に僕が悪いみたいに言われたから。
だから、僕が悪い気がして、他の人に相談しても、否定されたら、と考えたら怖くて仕方なかったのかもしれません。
「そもそも、その彼女はどうして彼氏が居るのに僕を好きになるの?一体、僕のどこが好きなの?
…ううん。みんな一体、僕の何にそんなに惹かれるの?」
今まで感じていた疑問をぽんぽん、僕は口にして行きます。
自分で言うのもなんですが、僕はもともと穏和な性格です。
口数も多い方ではなく、こんなに饒舌になったのは初めてです。
親にもこんなに一気に話したことはありません。
「ようは、どうして自分が女の子にモッテモテなのかが気になるんだね」
そうぼくに聞き返す先輩。
そう言われればそうなのですが。
……まぁ。はい、と僕は曖昧に返事をしました。
先輩は何も言わずに自転車を漕いでいます。
川沿いを走っていた自転車は、いつしか川を横切り、住宅街を疾走しています。
僕はまだ、話し続けます。
先輩は聞き続けています。
勾配の急な長い上り坂に差し掛かりました。
なぜ先輩が坂を上ることにしたのかはわかりませんが、先輩は「よしっ!」と気合いを入れるとか、上り坂を上り始めました。
重いだろうと思い、僕が下りようとすると「お客さん、途中下車は固くお断りしております!」とタクシーの運転手さんみたいに拒否されました。
先輩がこぐ度に、つらそうな息づかいが聞こえます。
「はっきり言うと、幸村くんの外見だと思うよ」
さっきの僕の問いかけに答えるかのように、先輩は僕に言いました。
いきなり放ったセリフに、僕はちょっと傷つきました。
僕も周りの人間よりちょっと目立つ容姿であることは自覚しています。
まるで、中身がないかのように、そんな風にサクッと言わないで少しくらい、気を使って欲しかったです。
「外見ですか?わかってますよ…そのくらい…」
ぶっきらぼうに言うと、先輩は「うーーんにゃっ!」と判別不明の叫び声をあげて、
「やっぱりわかってない」
と、言い放ちました。
叫び声とともに、坂を上りきったようです。
そこで先輩は自転車を止めて、下りるように言ってきました。
下りて坂を見ると、傾斜30度くらいの本当に急な坂道です。
「外見っていうのは、幸村くんの容姿然り、外面の性格も入ってるんだよ。簡単に言えば『ソトヅラ』だね」
先輩が自転車のスタンドを立てながら、言いました。
スタンドは一本足のものではなく、安定性のある昔ながらのスタンドでした。
「みんな『ソトヅラ』の幸村精市が好きなんだよ。人は本当に親しくならない限り、内面まで見抜けないからね」
先輩はスタンドを立てたまま、自転車に再びまたがってまた漕ぎ出します。
後輪がゆっきりとカラカラと回り始めました。
「幸村くんはさ。自分を作ってる人なの?」
思いもかけない先輩のセリフに、僕の心はギュッと何かに鷲掴みにされました。
子どもの嘘がお母さんにばれた、という心境です。
全て、先輩に見透かされているように感じて。
この人はきっちり僕の考えていることをわかってくれているような気がして、
自分を作っている自分が恥ずかしく、気まずく思いました。
「どうして…そんなことを?」
「『いったい僕のどこが好きなんだろう』って言ってるから」
自分に自信がない人間がよく使うお決まりのセリフだよね。
先輩の言葉が急に辛口になりました。
いつもの先輩、と言っても半年前の先輩ですが、優しくて頼れる、かっこいい王子さまのようですが。
今はとても冷たい女王さまのよう。
「…だって…僕は」
僕はどうしたらいいんだろう。
先輩にもこんなにキツいことを言われて、部長にも憎まれて。
明日になれば、僕と部長の話だってもっと広まっているだろうし。
先輩さえも僕を拒否するんだったら、僕は一体誰を頼りにすればいいの?
「弱虫だし、うじうじしてるし……先輩みたいに強くないし…」
そう考えると、また視界が揺らいできました。
モザイクの世界へと移行して行きます。泣いちゃダメだ。
強くなるって、うじうじしないって…決めたんだろ?
こらえるんだ!
「先輩みたいに、なりたくて…」
でも無理だ。
もう無理だ。
目を閉じたら、はたりと僕の顔から涙が一滴。
それを境に、ぽたりぽたりと涙の粒が僕の目から生み出されて行きます。
僕は先輩のよう強くなれない。
弱虫毛虫のままだ。
本当に強い人間は自分を飾ったりはしない。
わかってる。僕はみんなが思うほど強くない。
「だから、僕っ…みんなに好かれたくてっ…」
そうだよ。
僕は先輩に近づきたかった。
先輩が僕の王子さまであるように、誰かの王子さまになりたかったんだ。
そうしたら、先輩と対等なフィールドに立てると思ったんだ。
でも、女の子に寄って来られるにつれて、同性にも頼りにされるにつれて、
僕は「みんなの王子さま」になろうとしてたし、なりたいと思った。
だから、自分を強く見せたり、愛想よくしてた。
本当の僕を隠してた。
先輩に嗚咽混じりに思いの丈を伝えました。
僕の王子さまは、怒った様子も、飽きれる様子もなく、ただ「ばっかだなぁ」とあっけらかんと言いました。
その返事に対して傷つき、余計に泣いてしまった僕に、
「もうコレあげるよ」とさっき借りたタオルで涙と鼻水を拭ってくれました。
「最初から自分を作るようなこと、しなきゃいいんだよ」
タオルは鼻水と涙でベタベタになっているのに、先輩は何度も涙と鼻水が止まらない僕の顔を拭き直してくれました。
「本当の自分を好きになってほしかったら、自分をありのままさらけ出すの」
先輩の顔を見ると、いつものニコニコ顔で。
「そうすれば、自分のどこを女の子たちが好きになってくれたのか、ちょっぴりわかるから。
作った性格を好きになられたら、好かれてる実感が湧かないのも当然のことさ」
そして、最後に先輩はこう言ったのです。
「幸村くんは幸村くんのままでいいんだよ。何も恥ずかしいことなんかじゃないんだから」
わかった?
どうしてでしょうか。
先輩の言葉を聞いた瞬間、肩の荷が下りたようにスッと重い物が身体から取れた気分がしました。
今まで変わりたいと思ってた自分が馬鹿みたいに思えてきた。
先輩に近づけるかな?と思ってがんばってきたのに。
先輩の口から「僕は僕のままで」なんて言われたら、そうするしかないじゃないか。
でも、僕は強くなることに疲れていました。自分を作ることがつらくて、みんなに認めてもらっていたのは偽りの自分だってことに気づいたら悲しくて。
また、涙が溢れて来た。
先輩の言葉に僕は救われたんです。
疲弊しきっていた僕に「もうがんばらなくていい」と言ってくれてるみたいで、ホッとしたのです。
先輩が泣いている僕の顔にタオルを押し付けてきました。
涙を拭いてくれているのかどうか疑わしい手付きでぐりぐりと。
窒息しそうで、苦しくてもがいてるのですが、先輩はずっと笑ってます。
ようやく解放されて、ぜーぜー息を切らせていると、先輩は笑いながら謝って来ました。
先輩に対してちょっと腹が立ちましたが、心の中はかなりスッキリしていました。
先輩の言葉は魔法です。
ずっと悶々としていた気持ちが、その一言でぱっと明るくなる。霧が晴れたような気分になる。
「二兎追う者は一兎も得ず!全員にいい顔なんて出来ないんだよ。一個勉強になったね」
こう締め括り、先輩は自転車にまたがりました。
「ほら、後ろ乗って」とまたぽんぽん、と荷台を叩く先輩。
僕はさっきよりも軽くなった心を携え、
先輩に精一杯の感謝を込めて
返事をしました。
「はい!」
茜空の下、清々しい気持ちの僕と王子さま。
今日、先輩に会えて居なかったら僕はきっとドロドロした底なしの沼に捕らわれたままだった。
まるで今日の出来事は、通りかかった王子さまが白雪姫を助けるみたい。
そして王子さまの愛馬に乗って幸せな気分でお城へ戻っていく。
今の僕の気分は行きしなの暗い気分ではなく、穏やかに晴れ渡った空のように清清しい。
それと同時に、胸に何かがつっかえたような圧迫感が僕を支配する。
でも、それは気持ち悪いものじゃなくて、むしろとても心地よいもの。
とてもとても甘いもので不快感はいっさい感じない。
延々と、この甘い痛みが続いてくれたらいいな、と思った。
白雪姫も王子さまに救われた瞬間、こんな痛みを持ったのだろうか。
御伽噺だから、見当もつかないけれど。
ありがとうございます、先輩。
ありがとうございます、王子さま。
僕は行きとは違った気持ち、ありがとうの気持ちをたくさんこめて、また先輩の背中に顔をうずめた。
ありがとうって伝わりますように。
自転車はゆっくりと進み、ジェットコースターのように一気に下降して行った。