わたし、は今、屋上に来ています。
屋上は屋上でもデパートの屋上じゃない。(気ぐるみと遊べるほどあたしに余裕はない)
学校の屋上、厳密に言うと、そこから人が落ちないように囲われているフェンスをよじ登ってる最中なの。
なんのためにそんな事してるかって?
決まってる。飛び降りるため。
なんのために飛び降りるかって?
決まってる。死ぬため。




わたしは生きるってコト自体がイヤなの。
くっだらない学校の連中や、世間体しか気にしない家族。
そして、こんなくだらない学校とつまらない家族を生み出した世の中!
世の中が腐ってるから、全てが腐る。
だから、わたしがその全てを粛清してやってもいい。
むしろ、粛清してやりたい。
そして、キレイな世の中を創り出すの。
腐った世の中をリニューアルすることで、素晴らしい学校と素敵な家族が生まれる。
まさに理想的な世界になるの。





でも、みんなはわたしを『キチガイ』扱いする。
わたしの崇高なこの考えをみんなして、否定するの。
「気持ち悪い」とか「変」だとか。
学が無いって事は本当に可哀想なことね。
今の世の中がどれだけ荒んでいるか、わからないんだから。
世の中、脳みそ空っぽ人間ばっかり。自分の無知さを知らない人間だらけ。
無知の知を知る人間なんていやしない。



そんな世界に生まれたあなた達は本当に可哀想。
もちろん、わたしも可哀想。





でも、わたしは気がついてしまった。
自分がいかに無知であったか。
みんなが無知であるから、この世の中はダメになってしまった。
一人が無知に気づいたら?
そう。
一人が自分の無知を知れば、みんなにそれを知らしめらばいい。
無知の知を教えてあげればいい。






わたしたちがいかに無知であることを!






だから、わたしは飛び降りる。
彼らは無知であるから、わたしが飛び下りるなんて思わないはず。
驕りを改めない人間は、非常に盲目的で無知。
事が起こってからその無知さを知る、まさに愚かな人間。
わたしたち人間は言葉があるから、危険を察知する能力が薄い。
言葉だけで全てが分かると驕っているの。
だから人は簡単に騙され、地獄を見るの。
本当に愚か。
犬や猫でも、はたまた節足動物でも自分の身に降りかかる危険を察知できるというのに
わたしたち、ホモ・サピエンスは一体何なんだろう?
最も高い知能を持ちながら、わたしたちはどうしてこんなに愚鈍なの?
そして、どうしてそれを自覚しないの?
いい加減、気づきなさい。
でも無理ね。
いくら言っても人間という下等生物は、少しでも考えが違う人間がいれば「異端」と決め付けてしまうもの。
そして蔑ろにする。
気づきやしないのだ。







だったら、わたしが教えてあげるしかないじゃない。







あなたたちがいかに無知で、愚鈍で、犬畜生以下であることを!







フェンスを登りきったわたしは、飛び降りるため向こう側へと行かなければならない。
フェンスを跨いで、また下りようとしたその時、





さん!」





バタン、と屋上の扉が開いたのと同時にわたしの名前を呼ぶ声が聞こえた。
そもそも名前ってなんのためにあるのだろう。
識別番号でいいじゃない。
そもそも、名前というものは人間だけしか用いていない。
動物の場合は名前なんてなくても、顔の作りや体格で名前が分かるもの。
こんなところでも人は劣っているなんて、本当馬鹿馬鹿しい。




わたしの名前を呼んだのは、人間たちの間で「柳生比呂士」と呼ばれている。
彼は非常に頭がいいけど、無知の知を知る人間ではない。
彼も人間が最も優秀な生き物である、と疑わない生き物なんだから。




「何か用?柳生くん」




彼、柳生くんは走って来たのか息を切らしていた。
本当にぜーぜー言ってるから、そうとう走ってたみたい。見かけによらず元気な人。
わたしを見て、ホっと一息ついたと思えば、なぜか慌てたように叫んだ。(せわしい人だな)




「なっ…何やってるんですか!」

「何って…フェンス下りてる」(ほんと愚鈍)

「ではなくてですね、何のためにフェンスを越えてそのような所へ!!?」

「五月蝿いなぁ。叫ばなくても聞こえてるよ」

さん!」

「飛び降りるに決まってんでしょ!馬鹿じゃない?」




柳生くんともあろうお方が、なんでそんなくだらない質問をわたしにするんだろう。
馬鹿馬鹿しいにも程がある。
飛び降りる以外に何があるって言うの?
それ以外でこんなところに用事なんてない。変な人。




「戻ってください、さん」

「何で」

「死にますよ?」

「死ぬために飛び降りるの。それくらいわかって」




わたしが少しつっけんどんに言うと、柳生くんは血相を変えてフェンスに近寄ってきた。
柳生くんが顔色を変えるなんてすごく珍しいことだ。
普段は冷静沈着で、滅多なことで怒ったり笑ったりしな柳生くんが、怒りを露にしてわたしの元へとよって来る。
わたしは少し、本当に少しだけど呆気に取られてしまった。




フェンスを挟んで、わたしと向かい合った柳生くんの表情は怒っているけれど
それ以上に言い知れない、どこか複雑な表情も読み取れた。






「何のために死ぬのですか?」

「無知の知を知ってもらうため」

「ソクラテスの思想を広めてどうしようというのです」

「別にソクラテスを信奉している訳じゃないし」

「話をそらさないで下さい」

「…どうだっていいじゃん。そんなこと」






そう。
わたしの目的を知ったところでどうするっていうの?
手伝ってくれるのであれば、別にわたしは何も文句を言わない。
けど、あなたは明らかにわたしの邪魔をするつもりでしょ?
わたしの邪魔をして一体どうしようというの?






さん。確かにあなたは今、死にたいかもしれません」

「『かもしれない』じゃなくて死に『たい』の」

「そうであったとしても、死んでどうなるのですか」

「死んだら後悔するんじゃない?」

「誰が?」

「周りが」

「何故?」

「わたしを蔑ろにしていたがための結果じゃない」






一生をかけてわたしの存在を植えつけてやる。
わたしを蔑ろにしていた事を後悔させてやる。
今、わたしが生きているからこんな馬鹿げたことをしているけれど
わたしが死んだら、その原因を自分達で作ってしまったという事を時期に後悔する。
今は愚かだから、そんなことに気づかない。
でも、わたしが死ねば嫌でも気づかされる。
それが、自分がいかに無知であるかを知るという事。




柳生くんにそう話すと、彼はわたしを見てまた複雑な表情をした。
彼はいつも、わたしに親切だった。
周りがわたしを無視しても、周りが何を言おうとも、
彼だけはわたしを対等にに扱ってくれた。
紳士を名乗るに相応しい。





「私はさんが死ぬと後悔します」

「そう。だったら…」

「ですが、彼らは果たしてそうなのでしょうか?」





は?






と言おうとしたら、彼はフェンスを登り始めた。
いきなりの事にわたしの頭はついて行けない。
柳生くんはわたしの半分の時間で、いともた安くフェンスを越えた。
今はわたしの隣にいる。





「あなたが死にたいと思っている事、みんなに伝えるべきです」

「無駄よ、そんなことしても。あの人たちは人の気持ちを理解しようともしない下等生物よ?」

「でしたら、あなたが死んでも何の解決にもならないのでは?」

「…何が言いたいの?」

「彼らはまたあなたの変わりとなる人間を見つける、と言う事ですよ」

「………それは…」

「それでも、あなたは死にたいのですか?彼らに自身の無知を知れと言うのですか」

「…………」

「それは無理というものです。彼らは下等生物ですから人の言葉を理解しません」





打ちのめされた気分だ。
今まで「死ぬ」って意気込んでいたのに。
わたしは死ぬんだて決めたいたのに。
柳生くんの言葉にわたしの心がこんなにも大きく揺れ動くなんて。
わたしの決心が、柳生くんごときに砕かれるなんて。






「あなたは『無知を知れ』とおっしゃっていますが、本当は逃げたいだけなのでしょう?」







いじめを受けている現実から。








彼の言っていることは正しい。
そう。
そうよ。
わたしは、学校でいじめられている。
いじめられてる、て親に言っても相手にされない。
いじめは止まらない。
でも一人では解決できない。



誰も、助けてなんかくれない。
目の前に居る柳生くんだって助けてはくれなかった。







全てが憎い。
だから死んでやるの。
死んで何もかも終わらせるの。
だから飛び降りるの!






「わたしが死んだくらいで、誰も困らないじゃないの!」





もう、どうなったっていい!




「あんただって、あたしを助けてくれなかったじゃない!」



辛いときはいつも逃げてた。
逃げられない日もあった。
学校には安らぐ場所なんてなかった。
毎日が戦争だった。


わたしは早く逃げ出したいの。
学校が嫌い。
友達なんていない。
家族が嫌い。
結果を求めてくる。
世の中が嫌い。
こんな腐った奴らを生み出したから。





幸せになりたい。
でも、ここにわたしの幸せはない。
だから死にたい。
死ねば幸せになれると思ったから!




でも、死ぬ事が怖かった。
死ぬことに対して何かこじ付けをしないと死ぬ事を考えられなかった。
ソクラテスとか、無知の知とかどうでもよかった。






本当は、わたしが死ぬことで誰かの心の片隅に「わたし」という存在があればと思ったんだ。







「もうイヤなの!こんな学校も、こんな家族も、こんな世界も!!みんなみんな大嫌い!!!!」




もう、いい。
もう疲れた。
ここに居ても楽にはならない。



さよなら、柳生くん。
最後に本心をさらけ出せてよかった。
見取ってくれる人が一人でもいてくれてよかった。



飛び降りようと前に身体を倒すと
右腕をくん、と引っ張られた。
思わず身体が後ろに倒れてしまうけれど、何とか持ちこたえた。








死ねなかった。







死ねなかったわたしは、また明日も絶望しきった日々を送らなくてはいけない。
死にたかった。
楽になりたかったのに。





どうして、あなたにその権利を取られなけらばならないの?柳生くん。





わたしは柳生くんに対して怒りを覚えた。
すぐさま、彼の方を向いて抗議の声を上げた。






「何すん」「私は好きです!」






でも、わたしの怒りの声は柳生くんの言葉に遮られた。
柳生くんの、何に対してなのかよくわからない告白によって。
訳の分からなささに眉をしかめて、柳生くんに向かって「何言ってんのよ、あんた」と思わず言ってしまった。





柳生くんはわたしの右腕を離さない。
それどころか、わたしの左肩を手のひらで包んだ。
意外に大きな手のひらだった。
自然と彼に引き寄せられ、わたしと柳生くんの距離はとても近くなった。
柳生くんはわたしと目線を合わせて顔を覗き込んでくる。
その顔はひどく悲しそうに歪んでいて、何だか悪い事をした気分になった。






「私はさんが好きなんです」






柳生くんの声は少し掠れていた。
柳生くんの目は悲しそうだった。





「あなたの言うとおり…私はあなたを救うことをしなかった。私はあなたの助けとならなかった…ですが……」




柳生くんの顔が、少し近付いた。
眼鏡越しに、切れ長で優しそうな瞳を見た。
久しぶりに人の眼をみた。
ここしばらくは、ずっと下を向いて生活していたから。





「あなたが死ねば…私が困ります。あなたが今ここで死ねば、私は気が狂いそうになる。
あなたが飛び降りたら、あなたを引き止められなかったことを一生、後悔します」







それではいけませんか?








いけないことなんて何一つない。



だって、わたしは誰かに必要とされたかったから。

キモいなんて言わないで、ちゃんと人として扱ってほしかったから。

わたしという存在を認めてほしかったから。




柳生くんの言葉は本当に優しくて、心にじわりと浸透していくようだった。
今まで死ぬ事を考えていたバカみたいになってくる。
彼は、わたしがずっと欲しかった言葉をあっさりと、さらりとくれた。
死ぬことしか考えられなかったわたしの心を溶かしてくれた。




気がつくと、視界がぼやけて柳生くんの顔が見えなくなった。
ぱちり、と瞳を閉じると視界が明瞭になったけれど、頬に何かが伝って行くのを感じた。
何故だか、急に彼に甘えたくなった。
彼の手だけでは物足りなくなった。
彼にすがりたい。
彼の優しさに埋もれたい。




わたしは目の前にある彼の胸に顔を埋めた。
細く見えるけれど、しっかりとした背中に腕を回し泣いた。




柳生くんはわたしの行動に一瞬、戸惑ったようだけど
あやす様に抱きしめ返してくれた。
彼の身体は少しだけ、震えていた。






「死ぬなんて、悲しい事は二度と言わないで下さい」





そう言った彼の抱きしめてくれる力がより一層強くなった。
途端にわたしの涙がどんどん溢れ、声を上げて子供みたいに泣いた。
彼の身体の温かさが、本当に心地よかった。
そんなわたしの肩を、何度も何度も柳生くんは撫でてくれた。
彼の心の温かさが、本当に嬉しかった。







無知の知を知れ

今まで彼の愛に気づかなかったわたしも「無知」だったんだ。