ハルくんが怖い時がある。

ハルくんがわたしを見る眼は優しいものだし、わたしの前では表情をコロコロ変える感性豊かな男の子だけど。

試合をしているときのハルくんは、目つきが鋭くて相手を睨みつけていた。

わたしの知らないハルくんが居るようで不安になった。
















「…えと…どういう…こと?」







説明してくれんかのう、とたどたどしく言葉を紡ぎ出す彼、仁王雅治くんの顔からいつもの穏やかな表情は消え去り、心底驚いたように。
それでいて悲しそう?そこらへんは本人じゃないからわからないけど、複雑な顔をしていた。







「立海を出て、別の高校へ行くの」







もう一度、わたし・はハルくんに説明をする。
サラッと流すんじゃなくて、ハッキリと一言一言に思いをのせて。
再度、わたしの口から確認をしハルくんは眉根を寄せて、顔をしかめた。
不機嫌な時にするようなしかめっ面じゃなくて、傷ついたような表情で今にも泣き出しそう。







「一応、候補は公立かなって思ってて…滑り止めにこの私学を受けようかなって」







わたしの決意を改めて聞いたハルくんが何も話さないので、勝手に話すことにした。
わたしは会話中の沈黙が苦手だ。会話につまって、なんだか気まずい気分になる。そんな時、わたしはいつも以上に饒舌になる。その沈黙を埋めるかのように、べらべらと余計なことまで喋ってしまう。今回も、会話に詰まってどうしようかと考えて、考えた結果出てきたのが志望校の話なんだけど。おまけに取り寄せたパンフレットまで見せて。






こうなったらわたしは止まらない。誰かが口を挟むまで喋り続けるのだ。会話が無い状態に耐えられないのだ。会話が成立していないようで、いやなのだ。すでにわたしが一方的に喋って会話は成り立ってないけど。ハルくんが何か言わない限り、わたしは黙れない。ハルくんも長いつき合いなんだから、わたしの性格をわかっているはずだ。いつもなら適当な所で口を挟んでくれるけれど、今回は一向に口を開こうとしない。それほどびっくりすることだろうか。そりゃそうかも。今まで、そんな素振り一切見せなかったし、受験を決めたのもつい最近だ。






わたしは喋りまくった。わたしが受ける予定をしている他校の進学状況や理念から、修学旅行先や文化祭の内容まで。特に後者は、立海も私学だからそれなりに充実しているけれど、改めて他の学校のイベントを調べてみると、無い物があるからなのか、とても魅力的に思った。







「それでね、ここの…」

「なぁ」








やっとハルくんが喋った。
正直、わたしは今何を話したのか覚えていない。大まかな流れやトピックは覚えているけれど、細かいことは覚えていない。話を繋げることでいっぱいいっぱいで、それどころじゃなかった。
ハルくんはさっきと同じような、今にも泣き出しそうな、辛そうな顔をしてわたしを見下ろしている。こんな顔は見たことがない。いじめられていた時も、ハルくんはこんな顔をしなかった。また一つ、わたしの知らないハルくんが見える。







「…立海……本気で辞めるつもりなん?」







声が微かに震えていた。
ひょっとしたら泣くのかもしれない。


ハルくんが泣くのは見たことがある。泣く寸前のこらえてる顔も。歯を食いしばって、わたしに泣き顔を見られないように、まばたきをせずに必死になって涙を乾かそうとするんだけれど。やっぱり結局叶わなくて、ぼろぼろとビー玉が落ちるような涙をこぼす。けれど、今のハルくんの顔はさっきも言ったけど、知らない顔だ。泣きそうなことに変わりはないけれど、ただ泣くんじゃなくって…切ないような寂しいような、そんな印象を受ける。「大人」の顔だと思った。







「そうだよ。だから、そのためにも勉強しなきゃなんないの」







できる限り、ニコッと笑う。
正直、ハルくんのこんな顔を見るのは初めてだから、どうすればいいのかわからない。
そういう時は笑顔でなんとかごまかすしかない。
動揺してることを悟られちゃダメだ。
ハルくんから離れるって決めたんだから。







だからハルくんも、勉強教えてね。わたしを応援してね。







と、ゴリ押しするように言うと、ハルくんの眼が揺らいだ。
やっぱり泣きそうなんだ。
細い眼にじんわりと涙が浮かんでいて、今にも心を結晶化した雫が生まれそうだ。













「すまん」













わたしの読みはズバリ的中。ハルくんの眼からぽたり、と雫がこぼれ落ち、彼は謝罪の意を述べた。













「俺はいつでもの味方じゃけど」













わたしから、眼を逸らしてさっきよりもポソポソと。小さな声で話す。

聞き取りづらくて思わず眉を顰めてしまったけれど、はっきりと彼はこう言った。













「今回ばかりは…応援できんよ」













予想通りの答えだった。

ハルくんは反対すると思ってた。だって、わたしたちはずっと一緒だったから。どこへ行くにも、何をするにも。わたしたちは同じだったから。いきなり、離別するなんて無理。わたしだって出来ればハルくんと一緒に居たいけど、それだったらお互いのためにならないんだよ。ハルくんは、わたしが居なくても、もういじめられないよ。大丈夫だから。













だから。別々になった方がいいと思うんだ。














泣いているハルくんを見るのは初めてじゃないし、泣かせたことも何回もある。いつもなら焦って、機嫌取りに必死になってたけど、今日は機嫌を取るつもりは毛頭ない。いつだって、できる限りのことはハルくんにしてきた。一緒に居すぎてうっとうしいと思った時もあった。けど、ハルくんを突き放すようなことはしなかった。






でも。今回ばかりは無理。自分の意見を譲れない。これはわたし自身が考えて、お互いのためにどうすればいいか。考えた結果なんだ。







俯いて静かに泣くハルくんを見て、カップルの男の方が女を捨てる時ってこんな感じなのかなぁ?と思った。ふつうはわたしがハルくんの立場なのかもしれない。学校でのハルくんはそこまでだけど、わたしを眼の前にすると本当に女々しくなる。むしろ、わたしが男っぽすぎるのかもしれないんだけど。



泣かせてしまったことに負い目を感じてしまう。ハルくんにかける言葉が見つからない。会話がなく、わたしの嫌いな沈黙が訪れる。気まずい。気まずくなったついでに、1人になる時間が少し欲しくなった。ハルくんを説得するために考える時間がほしいのだ。 



















ちらりとテーブルの上を見ると、机の上に置かれた烏龍茶が入っていた透明のプラスチック製のコップが、わたしのもハルくんのも空になっていた。
窓を見ると、勉強を開始させたのは昼の暖かだけれども、強い日差しが差し込む時間帯だった。けど、今は茜色の穏やかな光がわたしの部屋を照らし始めている。







「…お茶、おかわり入れてくる」







足元に置いてあったお盆にコップを乗せ、立ち上がった。コップに入っていたはずの氷は水に変化していて、時間が大分と経ったことを認識させられる。





この張り詰めた空気が痛い。苦しい。まさか自分の部屋が、こんなシリアス一色な雰囲気に飲み込まれるとは思ってなかった。元来、こういう重苦しい空気は苦手なのだ。みんなで仲良く、平和に暮らしたい。そんな楽天主義なわたしには、無縁なものなのだ。その苦手な空気を自分で作り出してしまった、なんて自分でも思ってなかったけど。
ハルくんに背を向け、ドアの前に立つ。ドアを開ける前にふぅっ、と空気に耐えきれずため息をついた














瞬間。














腰が思いっきり引かれた。何かに腰を巻き取られて、後ろに引っ張られる。衝撃でお盆を手放してしまったがために、それは大きな音をたててひっくり返り、コップが水となった氷をまき散らしながら、カランカランとフローリングを転がる。







わたしを引っ張ったのはハルくんだった。なぜなら、びっくりしてとっさに眼を瞑っていたんだけれど、それを開いた瞬間、お腹にしっかりと。誰かの左腕が巻き付いていたから。この部屋にはわたしとハルくんしかいない。
ハルくんの右腕は、わたしの左肩をしっかり掴み、ハルくんの顎はわたしの右肩に乗せられていて、わたしの首筋に顔を埋めるように、後ろからわたしは彼に抱きしめられていた。


ハルくんと手をつないだことはある。おんぶもある。けれど、それ以外はない。これっぽっちもない。後ろから抱きしめられるなんて、あるはずがない。


ハルくんの胸は広くて堅い。わたしはけして細くはないけれど、細いハルくんの胸に収まっている。腕だって、やっぱりわたしよりも太くしっかりしていて、足だってわたしよりもずっと逞しい。













ハルくんが全然、別の人のように感じた。



















「ハルくん?」







おそるおそる名前を呼ぶと、抱きしめている腕にぐっと力が入った。
苦しくはないけれど、力強かった。







「いやじゃ」







か細い声で、わたしに囁くようにハルくんはつぶやく。







と離れたら…俺はどうすればえぇ?」







すんっと鼻をすする音と共に、ハルくんはわたしに問いかける。
どうするも何も、ハルくんはわたしが居なくても学校でちゃんとやっていけてる。
人気もあるし、テニスも上手いし、格好いい。
ハルくんに足りないのは自信だけなんだから。
それさえあれば、ハルくんは大丈夫なんだから。









「ハルくんは大丈夫だよ。もう、わたしなんかいなくても…」

「無理じゃ!」










ハルくんはわたしの言葉を聞くなり大声で叫んだ。
耳元で叫ばれたので、耳がひどく痛んだ。
けれど、それよりも、普段から優しいハルくんが声を荒げるなんてしないから、痛みよりも驚きの方が勝った。
ハルくんはわたしの身体を持ち上げ、彼に対して後ろ向きだったのを正面に座らせた。
彼の膝の上にわたしが乗っていて、どこからどう見ても、ただの幼なじみが取るような体勢ではない。













がおらんかったら俺、何にもできん」













そうわたしに訴えかけるハルくんの顔はせつなくて、やりきれなさを感じるくらいで、













がおらんようになったら俺、きっと学校、怖くなる。また、いじめられるんか思うと…不安で不安で仕方のうなる」












ハルくんの言い分もわかるけど、過去のことが相当トラウマになっているんだろうけれども、それじゃダメなんだよ。

わたしはそれじゃイヤだよ。この世界に居るのはハルくんだけじゃない。

もう、ハルくんしか見えない世界はイヤなの。













「ハルくんは、わたしがいたらそれでいいかもしれないけど、わたしはちっともよくないよ」













はっきり伝えなかったわたしが悪かったのかもしれない。
だから、ハルくんの存在がいつまで経ってもわたしにつきまとってくるんだ。














「友達になる子は、みんなハルくんのことばっか聞いてきてさ。いじめられるのもハルくん絡みだし。どこへ行くにも『仁王雅治』がついて回ってくる」














思えばハルくんに自分の言いたいことを言うのは初めてかもしれない。

今までもバシバシ言いたいことは言ってたけど、心の奥をさらけ出したことはない。













「中学入って誰一人として、わたしを『』として見てくれなかった。だから、わたしを、ただの『』を見てくれる環境へ行きたいの!」














だから、ハルくんと同じレールを辿れない。辿る気もない。
「わたし」という存在を誰かに認めてもらうためには、ハルくんが居てるとダメなの。
ハルくんは好きだよ。
好きじゃなかったら、今までずっと一緒にいるはずがない。
でも、好きだけじゃダメなんだよ。
好き、だけじゃ世界は変わらないんだよ。







わかって、ハルくん。















しばらく、沈黙が続く。黙ることにも黙られることにももう慣れた。
会話が成り立たないのは、仕方のないことなのかもしれない。
意見の食い違いは誰にだってあるし、誰だって喋りたくない時があるんだ。
確かにわたしは沈黙は嫌いで、それだけのために延々と喋り続けたりしていたのだけれど、
それはただの自己中な考え方で利己的であったかもしれない、
そう思うと自分がこれまでやって来た喋り続けるという行為は、随分と空気が読めていなかった。
反省しなくてはいけない。













どれだけ沈黙が続いただろうか。
ハルくんが次に口を開いた時、見えてくるわたしの世界は黒と朱が入り交じった世界で、さっきよりも視界が不明瞭になっていた。













「俺にとっては、はちゃんと『』じゃ。それは昔っから変わらん事実で、これからもずっと変わらん」













ハルくんの顔はいつになく険しく、両の眼は鋭くわたしの眼を射抜く。
語気はいつもより、いや。
今まで聞いてきた中で一番力強くて、はっきりしたもので。なよなよした弱さや優しさなんて感じられず、「男の人」そのものに感じた。
けれど、言ってくれる言葉はわたしの欲しい物ではない。わたしが欲しい言葉はそんなんじゃない。ハルくんがわたしを認めてくれてくれていたとしても、それじゃあ意味が無いんだよ。わたしはハルくんじゃなくて、ハルくん以外の人にわたしを認めてもらいたいんだ。









「わたしは…」







喋ろうと口を開くと、「けど」という、ハルくんの声がかぶさった。
その声はよく喋るわたしの声よりも大きくて、完全にわたしが黙らなくてはいけないような気がして、わたしは口を噤んだ。














「みんなが認めてくれんでも。みんながを心の底から理解してくれんでも、俺は違う」














腰に回っていたハルくんの左腕が背中に周り、右手はわたしの左頬に当てられる。
頬に感じる熱は暖かく、むしろ熱いくらいで。
そこからハルくんの気持ちが流れ込むように、わたしの頬に熱が送り込まれる。

親指でわたしの頬を撫でるハルくんの顔は、強いものからだんだんと「弱さ」が
混じり、鋭かった眼はいつの間にか柔らかくも儚く、不安が入り交じったものへと変化した。
カタカタと顎が震え、喉もかすかに震えている。
ゆらゆらと揺れるハルくんの瞳を見ていると、まるで自分の心が具現化しているように感じた。







「みんなに認めてほしかったら俺がみんなの分まで認めちゃる。みんなに愛してほしかったら俺が、そいつらの分まで愛するから」







寂しくないように、俺がそいつらの変わりになるから














ハルくんはそれから、わたしの肩を掴んで、すがりつくように。
最後にこう言った。












「なぁ、頼む。本当にお願いやから、俺を捨てんとって。」









俺を一人にせんで。
















振り絞るように放った言葉と共に、ハルくんは再び揺れていた瞳から、ぽとりと涙を落とした。


















わたしは







ハルくんを説得する気でいたわたしは

それ以上、何も言う事ができなくなった。




























結局はわたしは受験を諦め、立海に留まることにした。

と、いうのも自分の気持ちが、何をどうすればいいのか全くわからなくなったから。

ハルくんと離れたい。それなのに、逆の選択をした自分が自分でも理解できないでいる。

わかったことは、ハルくんのわたしへ対する執着心だけ。

わたしへ依存しきった彼の心を元に戻さないと互いに前へ進むことはできないのかもしれない。

いや、わたしも彼に依存しているのだ。

口では離れるような事を言っていても、

頭では離れなくてはいけないとわかっていても、

心の中では彼を求めているのだ。

でないと、思い切り彼を拒絶出来たはず。

彼のことをこんなに考えないはずだ。








わたしはこの先、どうすればいいのだろう。

いや、本当はわかってる。道は一つしかない。

前へ進むしかないんだ。

そうでないと、わたしもハルくんも時間が止まったままになってしまう。

立ち止まると二人とも成長できない。

無理やりでも前に進まなければならない。

たとえ今も、そして未来も。この決断が















Even if I understand huture of two people will bring mistakes

(間違いであるとわかっていても)