掃除の時間、一人で柳生くんは「ソレ」と戦っていた。
いつになく眼鏡をくいくいと上げ下げさせており、時折聞こえる生唾を飲み込む音から、彼がいかに緊張しているのかがよくわかる。
柳生くんの手には剣の変わりにホコリがいっぱいついた箒、盾の変わりにハンディタイプの金製ちりとり。
両手にそれぞれ構えたまま、柳生くんはソレとの間合いを保ったまま、ピクリとも動かずひたすら勝機を伺っている。
辺りにピリピリとした緊張感が走り、息が詰まるようなそれでいて胸がドキドキするような感覚に陥った。
わたしたちにはわかっていた。
これは彼の戦いなんだ、ということが。
手を出すことは許されない。
それが武士道。
それが王者立海の在り方。
「覚悟は…よろしいですね」
静かに紳士的に問いかける柳生くんだけど、きっと内では闘志が燃え上がっているんだろう。
彼は冷静でホーカーフェイスを保っているんだけれど、ソレに対する滲み出る殺気は消し切れてはいない。
彼から発せられる張りつめた空気が周りを支配する。
「いざ…参ります!」
空気が変わった。
それまで場を支配していた緊張感をぶった切るかのように、柳生くんが動いた。
右手に持っていた箒を振り上げて(ホコリがポロポロと落ちていく)床に向かって思いっきり振り下ろした。
スパァンと乾いた音がした。
その音に一瞬、「おぉ」とまわりがどよめく。
「仕留めましたか…」
彼の眼鏡がキラリと光った気がした。
自信があったんだろうか、呟いた彼の言葉の語気は強く、確信の色が微かに見えた。
けれど。
「ソレ」は生きていた。
たしかに柳生くんはそれに向かって箒を振り下ろすことが出来ていた。
でも所詮は箒。
振り下ろしたところで力を入れている手、つまりは力点から、ソレを潰す箒の先、つまりは作用点が遠い。
遠いと及ぶ力は反比例して小さくなる。完全に仕留めることはできなかったようだ。
柳生くんが仕留め損ねたソレが、箒の毛の間からサカサカと出てきた。
一斉に周りにいる女子たちの悲鳴と男子たちのどよめきが巻き起こる。
足をサカサカワタワタさせて、柳生くんの手から逃れようとするソレ。
長い触覚と茶色く光り輝くボディを持ち、隙あらば半透明の羽で空を飛ぶことも辞さないソレ。
人呼んでゴキブリ。
口に出したくない一部の人はGとも呼んでいるようだ。(ガンダムっぽくてかっこいいな。あえてGと呼ぶことにしよう。)
Gは右往左往に教室を這い回り、その度に柳生くんは箒を振り回して追いかけている。
いくら人間に知恵がそなわっていて体格が大きくても、Gの機動性にはかなわない。(ますますガンダムっぽい!)
その証拠に柳生くんはたかだか消しゴム大のGによって翻弄されている。
そもそも持っているスペックが違うんだ。真っ向から勝負に出てもGには勝てない。
と、その時。
Gがこちらの方へやってきた。6本足でやってきた。サカサカ言わせてやってきた。
途端にわたしの側から友人が逃げだし、「逃げろ」とわたしに半狂乱になって叫ぶ。
たかだかG。
何をそんなにおそれることがあるんだ。
物は考え用、広義でとらえるとアレはカブトムシの仲間なんだっつーの。
あんなの足の早いカブトムシと思えば怖くないでしょうが。
なんだってG一匹でそんなに叫ばなきゃなんないのさ。
それにいい加減、柳生くんのワンマンショーにも飽きてきた。
Gを箒で退治なんかできるはずがない。
あーゆーのはスプレーとか化学薬品、
もしくは新聞紙、古雑誌、スリッパとか得てして力が入りやすく、機動性が高いものでないと仕留めにくいんだよ。
箒を使うってことは柳生くんもGが苦手なのかもしれない。
普通の人間は新聞紙で十分だ。そんなまどろっこしいもの、使うはずがない。
Gがわたしのすぐ側までやって来る。
それの進行方向にはわたしがいる。
それとついでに柳生くんもやってくる。
箒をバタバタとGを潰そうと、床にたたきつけて走る姿がなんとも滑稽でたまらない。
とうとうGがわたしの目の前までやって来た。
わたしの足元にまで。
柳生くんの箒に気を取られているのだろうか、わたしに何かされるとでも思ってないのだろうか。
Gはどんどん近づいてくる。ついでに柳生くんも。
いつまで経っても終わらない決闘に嫌気がさしていた。
手出しをしないのが武士道なのだとしても、残念ながらわたしは武士ではない。
このくそつまらない戦いをさっさと終わりにして、さっさと掃除を終わらせて家に帰りたかった。
家に帰ってナースのお仕事(再)が見たかった。
延長戦に突入しそうなこの戦いに終止符を打つべく、わたしは柳生くんに手を貸すことにした。
Gが来るのを見計らって、ゆっくり右足を上げる。
ライフルよろしく標準はGにロックオン。(ガンダムっぽい!)
スタンバイ、オーケー!
発射します!
わたしは勢い良く足を下ろし、
足でGを潰した。
狙った甲斐もあり、その瞬間、かすかに「パキッ」という音が聞こえ、上靴の下にガムでもくっついているかのような違和感を覚えた。
仕留めた。
確信を得たわたしは、思わずニヤリと笑ってしまった。小さく「イエス」とガッツポーズを作ってしまった。
柳生くんを始め、周囲に居た人間はポカンとしてわたしを見ていた。
まさか、わたしが足でGを踏み潰そうなんて思ってなかったんだろう。
いや、思うはずがない。普通は足で踏んづけて殺すんじゃないしね。
しかし、地獄はこれだけじゃなかった。
クラスのみんなが、依然わたしを見たまま呆気に取られていた中、クラスの男子、丸井が口を開いたのだ。
「あいつ、踏みつぶすとか」
女じゃねぇ。
その一言にカチンと来た。
足で潰すのがそんなに悪いか。
柳生くんが箒で潰そうとした時は何も言わなかったくせに。
どう違うんだよ。
どっちにしろ潰して殺すんだからむごいも何もないでしょうが。
しかも女だからってGが怖いとでも思ったか。
わたしはGなんて怖かないっつーの。
そういう偏見はいますぐヤメテクダサイ。
丸井のセリフに対してあまりに腹が立ったので、わたしはGを踏んづけていた方の上履きを脱いで、そのまま丸井の方へ投げてやった。
上履きは放物線を描き、見事丸井の元へ届き、しかも靴裏がちょうど彼の顔に鋭く当たったがために、
丸井はGの体液がついた上靴を当てられたという焦燥感と、埃に対する嫌悪感、力一杯当てられた痛みで悶絶していた。
けれど、彼の元へは有る物が届いていなかった。
Gの死骸だ。
目線を丸井から反らし、辺りを見回してみると
空中で上靴とGの死骸がどうやら分離したようで、
肝心の死骸は柳生くんの白いワイシャツに引っ付いていた。
「あ」
やばい、と思った直後、わたしはこの世の物とは思えない柳生くんの悲鳴を聞くことになったのは言うまでもない。