4月20日。

その日はどしゃぶりの雨で、外でなんか部活はやってられず、どこも自主トレになったみたい。
いつもは優しく包み込むオレンジの光も、黒いもやに遮断されて届かない。
放課後の教室にはいっさい日の光は漏れず、無機質な白熱灯の光がわたしの身体を刺すように鋭く照らす。
わたしは自分の席に座って、ううん。突っ伏して寝ている丸井くんをじっと。
何をするわけでもなく、じーッと見てていた。
丸井くんの机の中からほんの少しの勉強道具と朝からもらったであろうたくさんのプレゼントが見える。
(その大半は女子からのお菓子みたいだけれど)誕生日だってことで、みんなからあれこれ貰えるのは羨ましい。
立海のアイドルだけある。
わたしなんか友達も少ないから、丸井くんほど貰えない。気持ちの問題だから貰える貰えないは言うといやらしいけれど、人徳の差なんだろうな。きっと。











丸井くんはよくモテる。
一年の時から彼を知っているけれど(3年間同じクラスだから)、年を重ねるごとに彼への思いを募らせる女の子が増えていっている。
それと比例して、丸井くん自身が女の子を連れて歩く回数も増えて行った。
でも、わたしが見る限り、けして長続きはしていない。
女の子と別れると、彼はすぐに別の女の子と付き合い出すのだ。この2年で付き合った女の子の数は二桁を優に突破している。











かといって遊び人、というわけでもないようだ。
前に丸井くんはわたしにこう漏らしたことがある。










「いくら彼女を作ったって。人と一緒にいたって…寂しいのは埋まらねぇんだよな」











わたしと彼はさして親しい仲でも、また疎遠な仲でもない。
付かず離れず、な中途半端な関係。
友達と言われてもそこまで親しいわけでもないし、ただの同級生というには寂しすぎる。
不思議な関係だ。
言うなれば腐れ縁、というのかもしれない。










丸井くんはいつも輪の中心に居て、みんなから愛されている。
クラスでは楽しそうにしているけれども、わたしは知っている。彼はみんなと別れた後、なぜだか辛そうな顔をしている。
疲れた顔をする彼の心はきっと満たされていない。みんなから愛されて、幸せに暮らしているのに、それでも何か足りないようだ。
一度だけ、彼と二人で話したことがある。その時、ぽつりと。不躾にも言ってしまった。










「丸井くんはみんなと居るのがつらいの?」









と。本当に失礼な質問だった。
丸井くんの何をわかったつもりで、わたしはこんなことを言ったのかわからない。
丸井くんは一瞬驚いたようにわたしを見て、それから寂しそうに、呟くようにさっきの台詞を言ったんだ。
なぜ、彼がわたしに本心を語ったのかはわからない。でもそれ以来、彼は度々わたしに向けて寂しそうな顔を向ける。
みんなの前ではしない、せつない顔をわたしに向けるんだ。…思い過ごしかもしれないけれども。











丸井くんは未だつっぷして寝ている。
今日はみんなからお祝いをしてもらって疲れているんだろうか。
サラサラで柔らかそうな少し癖のある髪が、丸井くんが唸るたびにサラッと落ちる。
彼の頭がわたしの方に向くと、綺麗だけれども幼さが残る顔が見えた。
唇が少し濡れていて、それは幼さとは対照的で妖艶だった。
唇に誘われるかのように、わたしの目は唇に釘付けになる。
規則的に聞こえる寝息に合わせて、唇が時折動く。少し開いた唇は触ると柔らかそうで、かぶりつくと甘い味がしそうな。
反則的な唇だ。










思わず生唾を飲んでしまう。ごくり、と喉が鳴ってしまった。まるで、ごちそうを目の前にしている狼だ、わたしは。
微妙な関係のわたしと丸井くんだけれど、今ここでそれが壊れそうになる。
丸井くんの色ある唇を見つめていると、下腹部の奥がキュンと疼く。息がなぜだか荒くなる。欲求がむくむくと湧き出てしまう。











あれに触りたい。











こんなこと考えるわたしはどうかしてるんだ。
丸井くんの唇に欲情している。
頭ではいけないと思いつつ、身体がついていかない。わたしの手は丸井くんの顔に伸びていく。
彼の寝息と同じように、わたしの息も規則正しいけれども荒々しくなって行く。
丸井くんの頬に触ると、肌はすごくすべすべで、あれだけ甘いものを食べているというのにニキビ跡やニキビのブツブツ感もなかった。
指の背で何度も彼の頬を撫でると、くすぐったそうに身を捩った。
















丸井くんの肌を堪能しがてら、どさくさに唇をなぞってみた。
最初は指の背で触れる程度。それだけでも柔らかくて弾力のある唇だった。
次は思い切って指の腹で唇に触れてみた。しっとりしていて、それでいて瑞々しかった。
押してみるとわたしの指に吸いつき、唇が指を誘うかのように沈んでいく。指を戻すとぷるん、と音がしそうなくらい指を弾く。









何度も触っていると、今度は食べてみたくなった。かぶりつくと、この柔らかい唇はどんな味がするんだろう。
いつも甘いものを食べてるから、甘い味がするんだろうか。わからないけれど、きっと甘美な味がすることは確かだ。











どうする?わたし。











丸井くんはいまだ起きる気配はない。唇を食べてしまっても、きっと彼は目を覚まさない。
バレない自信はある。
でも万が一、彼が目を覚ましたら?ただの同級生のわたしに唇をかぶりつかれるなんて、しかも性的対象として見られていると知ったら?
わたしはきっと恥ずかしくてつらくて、この学校ではやっていけなくなる。
散々、顔を触られているのに唇まで付けるなんてなんだか罪な気もしてくる。
でも、彼の唇を食べたい。
その普段は憎まれ口を叩いているけど、寂しがりやな言葉を紡ぐ柔らかな唇を貪りたいなんて。
女のわたしが考えることではないかもしれない。












理性と欲が葛藤を続けるけれど、答えは出ない。
唇を触っていた人差し指は丸井くんのうっすら開いた唇に軽く、挟まっていた。丸井くんの温もりを指で感じる。
熱いのは指だけじゃない。全身が燃えるように熱い。また、下腹部のあたりがざわついた。丸井くんがわたしの指を食べているみたいで官能的だ。














「ん」と丸井くんがいきなり声をあげた。
その声にびっくりして、指を唇からぱっと放す。
人差し指の温もりはあっと言う間に冷め、丸井くんの唾液でわたしの指は少し濡れていた。
興奮していたけれど、丸井くんから離れることによって我を取り戻して行った。
現状を目の当たりにして、初めてわたしは自分のしていたこと、思っていたことに気づいた。
今までやってきたことがすごく恥ずかしくて、勝手にこんなことをした罪悪感が胸にどっとわき起こった。














嫌な汗が流れ、身体が寒く感じる。











なんてことをしていたんだろう、わたしは。丸井くんに欲情して、唇を触って。
さらに欲求を満たそうと、唇を食べようとするなんて。
こんなのまるで自慰行為と同じだ。
はしたない。
生身の人にこんなことするなんて。なんてわたしは汚いんだろう。













「…ごめんなさい」






自然と出た言葉は思いのほか大きな声で、丸井くんを起こしてしまったかもしれない。
今日は誕生日でお疲れなのに。わたしは彼に何もあげてはいないのに。
自分の欲求を満たそうとして。我が儘な女だ。自分がこんなに我が儘だとは思わなかった。
丸井くんに背を向けた。
これ以上、彼の側にいるとわたしが汚くなって行く。
もちろん彼も汚されて行く。お互いのために近寄らないようにした方がいい。








離れようとした瞬間、













手を思い切り何かに引っ張られた。手首が熱い何かに巻き取られるような感覚と、後ろに力強く引っ張られる。
振り向くと、丸井くんが起きていた。わたしをじっと見つめて、手首を握ったまま。
眼差しは鋭く射抜くように、手のひらの熱はわたしを溶かすように。
いずれにせよ、彼はわたしの心の中を暴こうとしているんだ。だめだ。悟られてはだめ。
でも丸井くんの大きな瞳から目が放せない。熱を帯びた手首が何故だかいとおしい。
どうしたんだろう、わたし。どうなってしまったの?












雨足が強くなり、天気は雷も伴う豪雨に変化した。
教室にはわたしと丸井くんだけ。
電気は停電にあったのか、消えている。暗い中でも丸井くんだけはくっきり見える。
彼の眼光はするどく、じっとわたしの目を見つめたまま反らさない。
わたしもその目に吸い込まれているのか、反らせない。













「なんで謝ってんだ」













丸井くんの語調が強くて、怯んでしまう。
どうしよう。
本当のことを言うと、軽蔑されるだろうか。
軽蔑されなくても、本当のことは言いたくない。欲情したなんて言えない。

わたしは悲しくもないし、痛くもないのに、なぜだか涙が出てしまった。
ただただ子どものように「ごめんなさい」を繰り返し、答えになってはいない答えを丸井くんにぶつけ続けた。






丸井くんはわたしの様子を見て、小さく舌打ちした。
嫌われた。最悪だ。
こんなことになるなら、最初から触らなきゃよかった。
丸井くんと微妙な関係なんて作るんじゃなかった。
できることなら、ただの同級生に戻りたい。何でだろう。嫌われたくない。丸井くんに嫌われたくないよ。これじゃあまるで、













わたしが丸井くんを好きみたいじゃない。













丸井くんは立ち上がったけれども、わたしの手を放す気配はない。むしろ掴んだ手をさらに強く、痛いくらい握りしめた。
丸井くんは男の子にしては背が低い方だ。目線もわたしとそう変わらない。
けれども、彼の手はわたしのそれより遙かに大きく遙かに逞しく、イヤでも彼が男であることを認識させられてしまう。













「俺、欲しいもんがある」






丸井くんのいやらしい唇から、わたしに何かをねだるように言葉が紡がれる。まるで言霊だ。
条件反射のようにわたしは彼の声に反応し、また欲情しそうになる。












「パズルのピースが欲しい」












短く彼はそう言うと、ぐんっとわたしの腕を彼の胸の方に引っ張った。当然、わたしは彼に引き寄せられる形となるのだけれども。
一瞬の出来事だった。
彼は腕を掴んでいない方の手でわたしの肩に手を回し、掴んでいた方の手で腰に手を回した。
甘い匂いと、男の子特有の色気が鼻孔をくすぐる。身体全体に感じる熱はとても熱い。それらはまるで媚薬だ。
わたしは彼に抱き止められているんだ。
思考停止の境界線ぎりぎりにいるわたしが理解出来たのはそれだけだ。












丸井くんは続けて、肩に回した手をわたしの頬にあてた。顔は小さい方ではないけれど、頬は彼の手のひらにすっぽり収まった。
続けざまに唇をなぞられた。リップの効能が切れたわたしの唇は少しばかり乾いていて、彼の親指に付着している塩分でヒリヒリ痛んだ。











「最後のピースはお前だ」






え?
と、驚きの声を上げる暇もなく、何かが近づいてきた。怖くてギュッと目を閉じたから視界がフェードアウトした。
その間、一瞬唇を何かで挟まれる感触がした。たった一回だけど、確かに感じた。
ゆっくり目を開けると、まず飛び込んで来たのは赤。
丸井くんの髪の色と同じ色だ。そしてピンクベージュ。丸井くんの頬の色。
視界がはっきりしてくると、顔のパーツが見えて来た。大きな目、つんと上を向いた可愛らしい鼻。
すべて丸井くんのもの。












目の前にいるのは丸井くん。
目の前にあるのは丸井くんの顔なんだ。












じゃあ、さっきわたしの唇に当たったものは何?
ひょっとしたら。














が欲しい」














今度はしっかり認識出来た。働かない頭だけれども、しっかり感じることができた。
丸井くんの顔がわたしに近づき、柔らかいものがわたしの唇に軽く触れた。
それは丸井くんの、あの魅惑的な唇。
ゾクゾクする。丸井くんの唇がわたしの唇を。そう考えるだけで、ズクズクして来た。
これは夢のような現実。夢であっても構わない。今、この一時を楽しむことができれば。












それでいい。














徒にキス















丸井くんはわたしの唇を啄むようなキスを与えてくれた。
丸井くんの唇はやはり、甘くて官能的で。魅惑的でもあった。
放課後の暗い教室でわたしたちは互いの唇をただ求め合い、そして与え合ったのだ。