切原くんが彼女と別れたらしい。






その彼女さんとやらが、どうやら浮気をしていたようで、それにブチ切れた切原くんが彼女に手を上げてしまったそうだ。

女性を殴る切原くんも切原くんだけど、信じていた相手にいきなり裏切られてしまった時の絶望感を考えると情状酌量の余地はまだある、とわたしは思う。

手を挙げてしまうのは、きっと彼が一途で、また怒りをどのように表現すべきかわからないから。

相手に自分の気持ちを押しつけることでしか、自分を鎮められない不器用な人なんだ。









「切原くん、元気出して」







今、わたしの眼前で切原くんは涙している。彼女に裏切られた悲しさと、暴力を振るってしまったことに対する自己嫌悪、それに付随する誹謗中傷。

様々な要因があるのだろうけれど、わたしは彼じゃないから、彼が涙する真の理由はわからない。

ひょっとすれば、理由はわたしの憶測の領域を出たものなのかもしれない。





さっきから色々と立ち直ってもらいたいがために、慰めの言葉をかけているのだが、

わたしの慰めは月並みなもので、月並みな言葉しか出てこない自分のボキャブラリーの貧困さ、知識の足りなさ及び視野の狭さを悔いた。

これらのどれか一つでも満たすことが出来ていれば、わたしはあくせくとせず、早くに彼を立ち直らせる事が出来ただろう。











しかし、今の彼の心境を考えれば、「泣かないで」とは言えない。

かと言って、早く立ち直ってテニスをして、みんなに格好いい姿を、笑顔を見せてほしいから「無理はしないで」とも言えない。

わたしのエゴも慰めの言葉を発することを阻んでいるかのようだ。











みんなに笑顔を、というよりも、さっさとあんな女のことなんか忘れてしまえ、というのが本音だ。

いくら切原くんがテニスが忙しくて構ってあげられなかったとはいえ、二股をかけるなんて最低だ。だから切原くんの元カノは最低な女だ。

あんな女、切原くんには相応しくない。

ちょっと口が悪いけど、誰よりも真っ直ぐで無邪気で純粋な切原くんは、あんな売女と一緒にいる必要なんて微塵にもない。

切原くんにとっては売女と一緒にいること、むしろ同じ空間を、同じ呼吸する空気を共有すること自体が悪影響だ。













では、切原くんにとっての良影響とは一体何なのか。

それはきっと、そのままの彼を肯定し、行き過ぎた行為があればやんわりと諭し正常な道に戻してあげて、彼を一歩後ろから眺めることができる人物こそが切原くんに良い影響を与える人物なのだ。

彼は他者からの束縛や制約を受けてもなお、自分らしく生きられるほど器用な人間ではない。

今、この状況があるからこそそう断言できるのだ。

彼に相応しい人間とはそう。

彼のために自分を殺すことができる、自己犠牲の上に他者への貢献が出来るマザーテレサのような慈愛溢れる人間だ。

それ以外は彼にとってゴミ以下の価値でしかない。












しかし、そんな聖母のような人間はこの世界中、どこに捜してもいない。

例えば募金活動一つを取っても、他者からのちっぽけな善意を具現化した金銭によって貧しい者やハンデを負った者に施しを行う。

心の底から他人の幸せを願うなら、全財産を投げ打って彼らに奉仕すればいいものを、あえてそれをしない。

例えば製薬会社の医薬品開発にせよそう。

本気で癌やエイズの研究をして、苦しむ人々を救いたいのであれば、無償でワクチンを彼らに提供すればいいのだ。

なのに、企業は貧しい人やハンデを背負う人間から金を取る。研究開発費の捻出のためというならば、その費用は事業家にでも頼めばいいだろうに。











所詮、今の人はクライストにはなれないのだ。

人のため、と言いつつ所詮は自分のため。

「聖人」の皮を被った偽善者なのだ。













かく言うわたしも。












「…今はつらいと思うから…たくさん気持ち、吐き出そう」












偽善者の中の一人だ。

たとえ、友人が失恋の痛みに傷ついていたとしても、わたしはそこまで躍起にならない。

躍起になろうとも思わなければ、尽くそうとも考えない。

わたしが心の底から尽くしたい、また尽くすことが出来ると思うのは、目の前で傷ついた心を持て余している切原赤也、ただ一人。

さっきも言った通り、わたしは偽善者だ。

残念ながら無償で人に奉仕できるほど、そのような立派な思想は持ち合わせていない。

何らかの見返りがなければ、

傷をつけられてから日が浅いせいだからか、それとも思いの他あの阿婆擦れに心を奪われていたからか、腑抜けて泣くことしか出来ない彼を慰めても無駄とも取れる行為、するわけがない。

わたしが報償として是非とも戴きたいのは、彼の隣に常時並べるポジションだ。

誰にも邪魔をされない、わたしだけのポジションの確立だ。

彼をずっと見てきたから知っている。

彼は気に入った物は手元にずっと置いておきたがる。

その対象が、たとえ人間であっても。彼は自分の側から離れることを許さない。

それ即ち。彼の隣というポジションは、彼の一番のお気に入りであることを示す。つまりは恋人の地位。

しかも彼は1度気に入ったものを捕まえると、日常の消耗品は別として絶対に放そうとはしない。

言い換えれば、彼に一度見初められれば未来永劫、彼の側に居ることが許されるのだ。








そのくせ、自分が他者の言いなりになることを嫌うため、気に入ったものであっても、利害の不一致が発生すれば、すぐにでも切り捨てる非情さも持ち合わせる。

彼は純粋な子どもそのもの。

その子どものワガママをどこまで許容できるのか。それが、彼の隣に居られる期間を暗に示しているのだ。









あの売女は自分を抑制できなかったのだ。偽善者となりきれず、結局は自分の欲を優先した哀れであまりにも滑稽な女の末路は実にあっけない。

最初は気に入られようと必死に距離を縮めたがるが、去り際はやけに距離を取りたがる。

当然と言えば当然かもしれないが、その落差は見ているこっちが滑稽に思えてくるくらいだ。

今回だけでなく、その前も、さらにその前も。歴代の阿婆擦れはいずれも自分たちの身が愛しいのか、次々に彼の目の前から消えていった。










わたしは阿婆擦れのような失敗はしない。

付き合うからには、長い間側に置いてもらいたい。

そのための我慢だと思えば容易いこと思う。

わたしは自分を殺してみせる。

彼の側に置いてもらうために、自分を殺して彼に奉仕をする。

彼を手に入れられるなら、このくらいひどく簡単なことだ。












手に入れてしまえば、こっちのものなのだから。













Hypocritical plot   
偽善者の策謀   

 










…悪ィ…ちょっと、肩貸して…」








根気よく適当に当たり障りのない言葉をかけて、慰めること数十分。

ほら、彼がわたしの策中に飛び込んで来た。











「いいよ、悲しいことがあったんだもんね。今日だけだよ?」

「…サンキュ、な」









切原くんがわたしの手に落ちる日はそう遠くはない。







彼がわたしの肩に顔を埋めたかと思えば、感触を確かめるかのように、わたしの身体を力強く抱きしめ嗚咽混じりに再び泣き出した時。

わたしの口元は綻び、近い将来を思い描きながら、彼の背中に腕を回した。













(ほら、つかまえた。)