切原くんの靴下のせいで、一気に胃の消化物をぶちまけたわたし。
お母さんに洗面器を借りて、なんとか床にゲロゲロせずに済みましたが




………初日になんて失敗をしたんだ、わたし。




すっごく恥ずかしい。
恥ずかしいことこの上なし!
穴があったら入りたい!!
「顔から火が出る」とはまさにこの事!!!
しかも、切原くんを担当することになって、初日でしょ?
そんな日にエレエレ吐いちゃって……もう、切原くんの頭には「ゲロ吐いた先生」ってインプットされてるんだ!
間違いない!!!
もう、金輪際この子の家庭教師なんてしたくないし!うわーん!!




なんて言ってられません。
こんなコトくらいで担当外してもらえないし(ていうか、生徒か親が変えてほしいって言わない限り外れない…)
何より「靴下の臭いが臭すぎて、ゲロ吐きました。だから担当から外してください」なんて言 え な い!

………これも仕事だと思って割り切ってこの子と付き合っていくしかなさそうだ。
何回かしたら足の臭いにも慣れるだろうし。




「で、切原くん…は、英語が苦手なんだよね?」




ゲロ吐いてすっきり爽快のわたしと、わたしがゲロ吐く原因を作った切原くんは勉強を始めることにしました。
ちなみに時間はカナリ押し気味。90分で授業が終われるかカナリ心配。(きっと無理だ。延長になりそう)
切原くんの部屋はけっこう汚い。
本人なりにキレイにしたつもりなんだろうけれども、歩けるスペースを作ったたけで、物は全部部屋の隅に追いやられています。
隅っこに追いやられた物の中には、脱ぎっぱなしの制服なり(皺になるよ)、使用済みジャージなり(汚っ!)、エロ本(後でこっそり見てやろっと)なり、用途不明の使用済みティッシュなり(ノーコメントで)
これこそ、中学生の部屋!って感じの若々しいけれども、汚い部屋です。




「もう苦手ってもんじゃねっスよ!あんなの」




英語を「あんなの」扱いしてる切原くんは唇を尖らせてブツブツ文句を言い出しています。
「ったく英語なんて使わなくたって生きていけるってのに」「あのババアいきなり雇いやがって」「覚えてろよ」とか云々。
どうやら切原くんの知らないところでわたしが雇われたようで。
何故だか彼に「すいません、雇われてしまって」と頭を下げなければいけない気分になりました。




ま、まぁ。おうちのコトはおうちに任せて。
わたしは切原くんに英語を教えさえすればそれでいいんだ。
わたしはわたしで与えられた仕事を全うすればいいんだ。
わたしは何にも悪くないもんね!





「じゃあ…今日はちょっと時間がないからコレ。やってみよっか」





と、言って取り出したのは英語のプリント。
もちろん、わたしの手作り。
本部から、切原くんの英語能力は半端なくヒドイと伺っていたので、わたしなりに分析して作ってみました。
中1から中2までの全範囲からちょっとずつ、出しています。
最初の問題はアルファベットの書き方から、最後は受動態まで。本当に全範囲です。
しかも基本ポイントのみ、出題しています。


今日はこのプリントをして、きっといい時間になるでしょう。
来週から授業すればいいや。そう報告しておこう。




「これ、やるだけでいいんスか?」




切原くんはかなり意外そうにわたしを見ます。
目をまん丸にさせて、きょとんとして。(ちょっと可愛いし)時折配られたプリントの端っこを、人差し指と親指でつまんでをヒラヒラさせて。
さり気ない動きがエライ様になってんなぁ、切原くん。




「なに?もっとたくさんしたいの?」

「や、そういうわけじゃねっスけど。意外にやるコト少ねぇな、って思って」




切原くんは身体をわたしの方から、机に向けてプリントをじっと見始めました。
彼の手に持っているシャーペンがくるん、くるん、と何回も回ります。
なんか、絵になります。
カッコいい男の子って何をやらせても格好いいですね




「今日は残り時間、あんましないからそれだけなんだ。本当は解説とかもしたかったんだけどね」




切原くんはわたしのその言葉を聞くと、しならく何やら考えこんでから「あーあーあー!」と叫んで(大きな声でかなりびっくりしたんですけど!)
ぽんっと手を打ってこう言いました。







「だって先生、ゲロ吐いてたっスもんね!」








……ぁんだとこのヤロウ。
大体、誰のせいで吐いたと思ってんだこのヤロウ!
「そうだった!先生がゲロったから時間が短くなったんだ!!ラッキー!」と笑いながら抜かしやがる切原くん。
マジで首絞めてやりてぇ………!!!!
こんなに生徒に対して殺意を抱いたのは初めてです!
くそう、切原め!顔がいいからって何でも許されると思うなよ!!






「ゲロったのは切原くんの靴下が臭かったんだもん!仕方ないでしょ!?」

「だからって先生、吐くことないじゃないッスか!オレ、結構傷ついたんッスけど」

「だって本当、あれは空飛ぶ兵器だもん!もう、いいからはーやーくープーリーンートー!」

「いだっ!!いだだだだだ!!!耳、抓らないでっ!!」





「空飛ぶ兵器って…」と、切原くんはわたしに抓られた耳を押さえながらしょぼんとして問題に取り掛かり始めました。


その間、正直わたしは暇です。
今日は実力測定なので、授業をするつもりもありません。
切原くんの部屋を改めて眺めると、本当に汚い。
とくに、あの用途不明の使用済みティッシュ。と、エロ本とその上に置いてあるウェットティッシュのボックスが気になります。
切原くんも、使ったティッシュくらい捨てましょう。もったいないからって捨てないわけでもないでしょう?
先生くらいの年になると、そういうティッシュの使い方って何か分かってきますからね。

切原くんの若さについて考えていると、





「先生って名前、なんて言うんスか?」




切原くんがシャーペンをくるくる回しながら聞いてきました。
口を動かす前に手を動かして欲しいのですが。
でも、さっきのゲロ事件があって名前を教えてなかったのは事実で。




「わたし?わたしはね、

「へー。先生ね」




………生徒に下の名前で呼ばれたのは初めてです。
別にいいですけどもね。






「年は?」

「20」

「大学どこ?」

「えと、切原くんと同じ。立海」

「マジで!?じゃ、高校は?中学は?」

「や。地元ココじゃないから」

「なーんだ。で、先生の地元は?」






て、さっきから、わたし質問攻めじゃないですか!
別にわたしの年も、大学も、地元もどこだっていいじゃないですか!
切原くん、やる気あるんですか!?
初日でこれだけ喋る子も珍しいな…。
たいていの子は黙々と言われたコトをこなすんだけども。
……気に入られたってことなのかしら?
それだったらそれで、嬉しいんですけど。(何せゲロってますからね)


それでも、喋ってばっかりって言うのもどうかと思います。
お母さんたちも、お金出してわたしを雇ってくれてますからね。
この時間はべらべら喋るのではなく、勉強する時間です。
話相手を雇ってるわけではなく、家庭教師を雇っているのです。
切原くんの成績が伸びなかったら、お金の無駄ですよね。
ここはちょっと、注意すべきです。







「………切原くん。口だけじゃなくって手も動かそうよ」






注意をしてみました。
が、なぜか切原くんはきょとんとしてます。
わたし、特に変なこと言ってないよね?ずっと喋ってるのをちょっと注意しただけだよね?
なのに、なんでそんな「え?」みたいな顔されなきゃいけないんですかね?


一人わたわたしてると、彼はとんでもないコトを言い出しました。










「だって、わかんねッスもん」










………え?
ちょっと待ってよ。
これってかなり、基本的なコトしか書いてないんですけど。
別にイディオムを出してるわけでも、難しい単語を出してるわけでもないんですけど。
切原くんの回答を見ると、ほんと真っ白で(アルファベットと、I am a student くらいは書いてくれていだけど)
他はもう、本当にキレイさっぱり真っ白。
漂白剤を入れて洗ったシーツ並みに真っ白。
………びっくりです。
ここまで出来ないとは思っても見なかったから。






「切原くんさぁ…いつも英語の時間、何してるの?」






あまりの白さについつい出てしまった、わたしのセリフ。
捕らえようによっては教育者失格かもしれません。
でも、素直にそう思ったんですもん!
一体、授業中どうしてるのかなって!
切原くんはこの言葉の意味を素直に受け取ってくれたみたいで、ニコッと満面の笑みでこう答えてくれました。







「アスリートたるもの、睡眠補給は大切ッスから!」

「ようは寝こけてるんだ」

「そうとも言うッス」







なんで、「睡眠補給」とかちょっと難しい日本語は出てくるのに簡単な英語はできないんでしょうね。
ちょっとこの子を教える自信がなくなってきたよ?
まず、何から教えなきゃいけないんだろう。
ううん、何からじゃない。
1から教えないとダメだ、この子!出来なさすぎる!!
お母さんはなんでこの子がこんな風になるまで、ほっといたんだ!!!








「ねぇ、先生」





あまりの悲惨さに一人で呆然としてると、切原くんがねっとりした声でわたしに話しかけてきました。
中2のくせに、やたらと色のある声です。
どうやったらこんな声が若干14歳かそこらの彼に出せるんでしょうか。
不思議で溜まりません。
わたしが14歳のころ、こんな色気のある男の子、周りに居なかったですけどね。




「オレんとこ、2週間後テストなんスよね」




知ってるよ。
お母さんは今度のテストで、君の成績をあげようと思ってわたしを雇ったんだから。




「で、オレ、テニス部のレギュラーなんスよね」



それは初耳だな。
テニスやってたんだ。しかも、その年でレギュラーか。
かなり実力あんだね。



「で、オレ、次英語の成績悪かったら補習なんスね」



君は確実、補習です。
わたしがいくら協力しても、短期間で中2レベルはキツイかもしれません。



「で、オレ、補習んなったら次の大会出れないんッスね。補習と日がかぶってるから」




…………へぇ。



「で、オレんとこのテニス部って全国大会2連覇してて、オレが抜けると変わりのヤツ、いないんッスね」




……………。





「何とかして…くれますよね?」





そう言った切原くんの顔には笑みが張り付いていたけれど、さっきみたいなニッコリとした天使の微笑みじゃなくって
にたぁ、と口角を吊り上げた何とも意地の悪い、悪魔の笑い方だった。
「何とかしてくれますよね?」って、「何とかする」しかないじゃんか!こん畜生!!!
「オレの成績アップは、オレ1人の問題じゃないからどうにかしろ」ってことだな!こんにゃろう!!





「………切原くんも…がんばるんだったら、何とかなるように努力する」

「そうこなくっちゃ!」








かくして、わたしと英語が全くできない男の子との戦いが火蓋を気って落とされたのです。










ホームティーチャー!!!− 実 力 測 定 編 −

「がんばるって約束できる?」

「もちろんッスよ!オレもう崖っぷちなんッスから!!」

「本当に?」

「はい!何なら指きりしときます?」

「へ!?(なんで!?)」

「はい、先生小指出して!ゆーびきーりげーんまーん♪うーそついーたらはーりせーんぼんのーますっ♪指切った!」

(別にわたしは約束破る気はないんだけどね。仕事だし)