6日目




昨日、あれからわたしは保健室には寄らず、汚水塗れのまま家に帰りました。朝、学校に来てすぐ家に帰ったのでお母さんにびっくりされましたが、制服が所々濡れている上に、身体中汚水が乾いてホコリがこびりついているのを見たのでしょうか、何も言わずにいてくれました。いじめられていると思われたと思います。「制服、出来るだけ洗ってあげるから脱いじゃいなさい。それとお風呂にも入るのよ」と優しくわたしに声をかけてくれるお母さんに思わず感極まって泣いてしましました。「おーがーあーざぁーーん!!!!」と相変わらず可愛くない泣き方でしたが、それでもお母さんは何も言わずに臭くなった制服を洗ってくれました。




部屋着に着替えて、携帯をチェックすると友達からのメールがたくさん来ていました。「大丈夫?」やら「気にするな」やら。どれもわたしを気遣う文面ばかりで誰も幸村くんとの関係を聞いてきませんでした。きっと、わたしに気を遣ってくれているのでしょう。野次馬とか思っていた自分が情けない。自分自身が思っているほど、友達は悪い人たちではないのに。反省しなきゃ。




けれど、その幸村くんからはなんの連絡はなくて。もともと忙しい人だから、メールや電話を期待してはいけないのかもしれないけれど。でも、携帯の番号やアドレスを交換した日から、幸村くんの方からずっと。連絡をくれていたのに。昨日から一つも。メールも電話も。全くないです。まるで、もとから幸村くんというとても格好いい男の子となんて連絡を取ってなんかないんだよ、と今までのことが全て夢の中の出来事だったように。ぷつり、と何もかもが途絶えてしまったのです。ずっと夢を見ていたわたしにいきなり現実を叩きつけられても、わたしはそれを受け入れられるほど、到底要領のいい人間ではありません。ましてや、幸村くんを好きだと自覚した今、彼からの連絡を今か今かと待ち望んでいるのです。携帯電話が鳴るのを待っているのです。幸村くんと何かしらの形でつながりを持っていたい。幸村くんを手放したくない。わたしのおなかの中は幸村くんに対する独占欲がぐるぐる渦巻き、その欲望がオーラとして滲み出し、おなか以外にも手や足、頭のてっぺんから爪の先までどすぐろいオーラでわたしは包み込まれているかのようです。

その負のオーラがわたしの身体を支配しているかのように、しきりにスライド式の携帯電話をシャカシャカとスライドさせたり、センターに問い合わせてメールを受信したり。また、独占欲とはまた別の何かがおなかの中の奥深くに根付いています。まるで小さな種を植え付けられ、それは独占欲を糧として大きくなり、蔓を伸ばして胃のあたりを絞めつけます。この感覚に名前をつけるとすれば不安。「幸村くんから連絡が来ない」という事実が種となって、時間が経つにつれて成長して行く。蔓に絞めつけられているわたしは植物の成長と比例してますます不安のどん底に陥れられるのです。




こんなに不安になったことは未だかつてあったでしょうか。中学受験の時も別に受かっても受からなくてもどっちでもいい、と思っていたから全く緊張なんてしなかった。むしろ、自分が立海になんて行けるはずなんて思っていたから緊張する理由もなかったのだと思います。
小学生のころに習っていたピアノの発表会でも緊張なんてしなかった。だって練習もそんなにしていなかったし、間違ったか間違っていないかなんてほとんど誰にもわからないから。ちゃんと弾けるかなんて、その時になってみないとわからないのだから不安になっても仕方がない。緊張なんてしてもいずれは弾かないといけないのだから、と開き直っていたのです。

けれど今回は違います。今ま不安を感じていた出来事ははわたし一人が抱える問題で、かつ目標を達成するのに自分自身がそこまで重要だと思っていなかったのです。

けれど、今回はわたし一人の問題ではありません。他の人を巻き込んでのこと。
しかも、わたし自身が「仕方ないよね」と簡単にあきらめられるようなレベルの問題ではありません。今までは上手く行かなかった出来事に対しては「しょうがない」とあきらめていたけれど。




現在、わたしが掴んでいる魚は非常に大きいのです。わたしは彼が好きなのです。好きになってしまったのです。幸村くんは確かに格好良くて、綺麗で、穏やかだけれども。実際は、普通にエッチなことも言うし、人をいたぶるようなサドな所もある。王子様のような容姿とは裏腹に、ちょっと強引で優柔不断なわたしをぐいぐいと引っ張っていってくれる、力強くてたくましい男の子。たまに融通が利かなくなるけれど、たまに感じる思いやりは本当に優しくてやらかくて暖かい。今まで知らなかった幸村くんの側面を知るたびに、もっといろんな幸村くんを知りたくなってくる。むしろ、わたしだけが知っている幸村くんの姿というものを見たくなってきた。誰にも見せたことがない幸村くんの素顔をさらけ出してほしい。



そんなことを思うようになるのは本当におこがましいけれども、こんな風に独り占めをしたくなるくらい、わたしの中の彼に対する気持ちは膨らんでいるのです。だから。








幸村くんをそう簡単にあきらめられない。
あきらめてはいけない、とわたしは思うのです。





いつから自分はこんなによく深い人間になったのか、幸村くんを誰にも取られたくないのです。
だって期間限定とはいえ、幸村くんの今の彼女はわたしだから。
他の女の子なんかに絶対渡してなるものか。と、強く強く思うのです。






ひょっとしたら、昨日わたしに汚水をかけた女の子もこんな気持ちだったのかもしれません。いえ、そうに違いありません。いきなり横から好きな人をかっさらって行ってしまったのだから。泥棒と一緒です。そのくらいしないと彼女の気も晴れなかったのでしょう。それでも足りないのかもしれませんが。もし、今別の人に幸村くんを取られてしまったら。わたしも彼女のような行動を起こさないとは限りません。ひょっとしたら、もっとひどいことをしてしまうかも。そう考えると彼女は人がよくできた人間なのかもしれません。汚水をかけて、罵声を浴びせただけなのだから。それで、彼女の気が済むのであればわたしはそれを喜んで受け入れます。どんなに汚い水も、ひどい言葉も受け止めてみせる。彼女に限らず幸村くんがわたしを選んだ時点で、幸村くんのことを好きな女の子たちの気持ちは届かないものになってしまったのだから。その子たち全員の憎しみと悲しみを受け止めなければ。それが彼女たちへわたしができる唯一の償い、そして失恋の慰め。







けれど。そう決意をしたはいいのだけれども、肝心の幸村くんからの連絡が一切ありません。こうやって悶々と色々、考えている時も一向に携帯の着信音は鳴りません。携帯のディスプレイを何気なくみれば、お昼もおやつ時を迎えるころ。西日がそろそろ窓から射し込み、空が茜色に染まり始める時刻。朝からずっと、ベッドの上でごろごろとしているわたし。ひたすら幸村くんからの連絡を待っている。今日は部活はお昼まで、と一昨日幸村くんは言っていました。だから、もう部活は終わっているはずなのですが。







……電話、してみようか。







そんな考えがフ、と頭をよぎりました。そしてあることに気付きました。
この5日を振り返ってみて、わたしは何事においても幸村くんからの指示を待っているだけで、自分から何か行動に移したことがありません。いつも幸村くんが主体となって、幸村くんに全部決めてもらって。そして連絡もすべて幸村くんから。性格的なものもあると思うけれども、あまりにも受け身すぎやしないでしょうか。他人任せすぎやしないでしょうか。唯一、自分から意見を言ったのは4日目の手を繋いでのデートの時だけです。しかも自分の意図とは違って、無意識に身体が動いての結果です。
自分で考えて動いたことなんてありません。

果たしてこれでいいのでしょうか。幸村くんからの連絡がないのに、このまま携帯電話を握りしめてゴロゴロとベッドの上を転がっているだけで本当にいいの?幸村くんから連絡が来るかなんて保障はどこにもないのに、このまま待ち続けるだけで本当にいいの?
明日を乗り切れば、わたしと幸村くんは正真正銘の彼氏彼女になることはできるけれど、これからお付き合いを続けて行く中でこんなに消極的で本当にいいの?ううん、すでに幸村くんからの連絡がぱたりと途切れてしまった時点で幸村くんの心はわたしにはいないのかもしれない。



こんな状態で本当に明日を乗り切れるの?(ううん、きっと無理)












幸村くんとの繫がりを断ち切りたくないとは言うわりには、自分から一切動いてないんじゃないの?
ただ待っていい餌にありつこうとするなんて、すっごく虫のいい話とは思わないの?
そんな中途半端に付き合ってて他の幸村くんに心を寄せている人間に申し訳ないと思わないの?
そして、こんな受け身なわたしを好きだ、と言ってくれた幸村くんに対しても失礼だとは思わないの?













けれども幸村くんは格好良くて自分に自信もあって、顔もきれいで。
わたしなんかとは月とすっぽん。
誰だって幸村くんに告白されたら断らないよ。













それってずいぶん幸村くんを美化して言ってるけれどさ、幸村くんだって人の子だよ、
好きな人に告白するなんてすっごく勇気がいることだと思わない?
誰だって告白する時「フラれても構わない」なんて思わないよ、いい返事を期待するに決まっているよ
幸村くんだってあんたに告白する時、「この子は自分のことが好き」だと思ってしないよ、
だってあんたは前に言ってたよ、




幸村くんは普通の男の子と変わらないんじゃないのかって。














あんたに足りないのは勇気だよ、
誰も告白をしろなんて言ってるわけじゃあないよ。そんなこと今の肝っ玉の小さいあんたには絶対無理ってわかってるから。
ただ電話をしてみるだけでいい。無理ならメールをするだけでいい。ちょっとは自分で動いてみろ。
そうすればきっと、上手く行かなかったとしても後悔することはない。だって自分で動いてみたんだから。















勇気。なんてものはわたしの中にあるかはわからない。
たぶん、そんなものはないと思う。だって、わたしは自他共に認めるヘタレで周りに流され他人のペースに巻き込まれてしまうような人間だから。
けれど、自分の中で自問自答してみてわかったことはたった1つ。






動かないと何も始まらない。






幸村くんからの連絡が来たときにすぐにでも取れるよう、ずっと握りしめていた携帯電話。手汗がびっしょりついて、湿度が高い場所にでも入ったかのようにしっとりとプラスチックの外装が濡れています。携帯電話をスライドさせて、電話帳を開きます。別にスライドなんかさせなくてもディスプレイのすぐ下に十字キーがついているから電話帳を開くことができるけれども。なんとなく、シャッと動かしてみたかったのです。そのくらい、わたしの身体は、わたしの気分は落ち着かないものだったのです。




電話帳に入っている「幸村精市」という四文字の漢字と、その中に入っている11桁の不規則に並ぶ数字。通話ボタンを押せば、すぐにでも幸村くんの携帯電話に連絡が行く。そうすれば幸村くんの声が聞こえて来る。柔らかい声が聞こえてくる。それから何て言おう。


「連絡がないからかけてみた」とか?ううん、ダメだ。感じ悪い。
「暇だったから」とか?忙しい幸村くんに対してのイヤミ?
「好きです明日からもよろしく」そんなの、いい訳がない!







うだうだ考えてても意味なくない?
本当、電話かける気あるの?







うるさいな、わかってるよ!






自分の中の自分にイライラするなんて、どうかと思うけれども。半ばやけくそでカチっと通話ボタンを押すと。本当に2、3秒もしない間に幸村くんの電話番号を呼び出して、プルルル、と呼び出し音が聞こえてきます。心臓がばくばくしてきました。心なしか全身がぐわぁっと熱くなり、汗ばんできました。どうしようどうしよう。さっきもいろいろ考えてたけど、幸村くんが電話に出たらなんて言おう。


「やっほー幸村くん」いやいや、わたしはそんなキャラじゃない。
「本日はお日柄もよく」そんな体育祭前の校長先生の演説じゃないんだから。
「うっふふふわたしはだれでしょう?」って着信見たら名前書いてるからわかるっつーの。






あーあーあーあーどうすればどうすればどんな話をすれば……とくに用事もないのにいきなり電話なんかするんじゃなかった。待ってるだけじゃダメとか変な気を起こさなければよかった…。



ひとりであれこれと考え葛藤していると、





プツっ







という、無機音がわたしの耳に届きました
どうやら幸村くんの携帯電話の回線に繋がった、電話が通じたようです。何か!言わなきゃ…何か言わないと!わたしはさらに焦ります。せっかくわたしから電話したんだから、勇気を出したんだから。幸村くんに何か、何かって聞かれたらわからないけど。とにかく話したい。おしゃべりしたい。声が聞きたい。聞かせてほしい。わたしの思考スピードを無視して、気持ちばかりがわたしを急かします。




どうして連絡くれなかったの?わたし、すごく寂しかったんだから。たくさん話したいことがあるんだから。昨日のこともちゃんと話さないと。昨日は早退しちゃってごめんなさい。一言幸村くんに声をかけるべきだったね。あと、明日からのこととかも。わたしも幸村くんのことが好きになっちゃったんだよ。だから、ずっと。これからもお付き合いをして行きたい。まだまだ幸村くんのことをわたしはよく知らないから、もっともっと知りたい。幸村くんのこと、わたしにもって教えてほしい。お願いよ、幸村くん。







伝えたい。わたしの気持ちを聞いて欲しい。わたしの話を。ねぇ、幸村くん。











「もしもし!?ゆきむ…」

『ただ今、電話に出ることはできません』









逸る気持ち、焦る心。裏腹に詰まる言葉、振り絞る勇気。急加速していたわたしの感情、それが全て一気に、熱した鉄に水をかけらろたかのように冷めていきます。





やっぱりね。幸村くんは忙しいんだ。電話に出られないことなんてよくあること。わたしだって、電話を取り過ごすことだってあるでしょ?幸村くんだってそうだよ。常に携帯を肌身放さず持ってるわけじゃないんだから。ね、今回はたまたま出れなかったんだよ。また電話すればいい。








『ピーッという発信音の後にご用件をお話し下さい』







でも、やっぱりつらい。
たった1日、昨日の朝から会ってないだけなのに。どうして幸村くんと連絡が取れないの?どうして電話もメールもくれないの?彼女がつらい時って、たとえ忙しくたって気にかけてくれるのが彼氏ってものじゃないの?でも、どうして?なんで?
メール一通だけでいいから。一言だけ送ってくれたらいいから。お願いだから。わたしとの関係を終わらそうとしないで。誰のものにならないで。わたしだけの彼氏でいて。昨日、汚水をかけられたわたしを慰めて。大丈夫だからって言って。気にするなって言ってよ。不安で不安でたまらないの。幸村くんがほかの誰かのものになるんじゃないかって。昨日の子はわたしなんかよりずっと可愛い子で、女の子らしくて。そんな子に靡いちゃうんじゃないかって心配になるの。
それに幸村くんを好きな子はそれだけじゃない。ものすごく性格がよくて、綺麗で優しくて。文句のつけようがない子なんていっぱいいるんだから。わたしなんか眼中に及ばないくらいなんだから。その子とわたしが同じ土俵に立ったらわたし、絶対に勝てないよ。幸村くんに選んでもらえる自信ない。







だって、わたしは。すごく汚い人間だから。汚水をかけられた女の子と一緒で、今のわたしも幸村くんを手放したくないから、すごくひどいこと考えてる。きっとわたしも、今のわたしなら幸村くんをさらいに来る女の子を排除しようと躍起になる。






そんなのいや。
そんな自分がいや。
そんな醜いことを考える自分が一番いや。






「もう、やだよ」







こんなマイナス思考な自分がほとほとイヤ。
振り絞るかのように、でも無意識に口をついて出てきた独り言はわたしが予想していたよりも大きな声で。
電話を切らないまま、携帯を耳に押し当てたまま呟いたその言葉はしっかりと、留守番電話のメッセージに登録されてしまったかのしれない。




むなしくて、悲しくて。つらくて。涙が出てきてしまう。
これが恋というものなら、最初からしたくなかった。
自分がこんなにひどい人間だと気づきたくなかったよ。
もとの何も知らないわたしでいたかった。





電話の主が電話に出ないことが幸だったのか不幸だったのか、わたしにはわかりません。ただ、わたしはその場で目が顔から涙と一緒に流れ落ちるくらいにむせび泣きました。










自分がいかに最低な人間かを思い知りながら。

そして、幸村くんがいない寂しさから。